『小梅咲く遊郭の香気と色気』
章一郎は叱り飛ばされると覚悟し、身構えた。事情も知らず、偶然そこに居るわけはない。もはや一部芸人の出稼ぎは公然の秘密になっている。古株の巽なら手品師を締め上げて遠征先を聞き出すのも造作ない。
「この時期にしては過ごしやすい夜だ。少し歩こうや」
責め立てられることはなかった。物言いは柔らかく、表情も穏やかだった。章一郎らが街中のホテルに居た理由を尋ねもせず、ただ花街を案内したいのだと言う。
「若いもんを引き連れて、この温泉街の名所でも巡ろうかと思っとったが、色々と忙しなくてなあ。それに舞台が跳ねる頃は、だいぶ夜が更けていて、もう風呂入って寝る頃だ」
そうも話すが、聞けば二日に一度は花街を訪れ、酒を引っ掛けると明かす。飲ん兵衛の
少し進むと小川に突き当たった。遊歩道の柳が夜風に揺れ、枝葉の隙に水銀燈の青白い灯りが煌めく。前に耶絵子と歩いた箇所より海に近いようで、ほんのりと磯の匂いが漂う。宿屋か貸座敷か、川沿いにある館の窓はどれも明るく、終わりのない宴席が続いているようだ。
「こんな場所があったのか」
作造は感嘆し、章一郎は唖然とした。梅花の枝が添えられた小綺麗な橋を渡ると、ひと際眩しい光景が目に飛び込んできた。不夜城の本丸とも言える遊郭だ。道の両脇に並ぶのは
「昔と変わっていないようでもあり、変わっているようでもある」
巽は堂々と通りの中央に立って周囲を眺め回し、懐かしそうに言った。章一郎は
若い二人に度胸試しを薦めるでもなく、また
見番で見た芸妓たちの雅やで風流な趣きとは異なって、遊郭には華もあれば毒もあるようだった。路地の入り口など各所に、
「おっかなびっくりするこたぁねえ。花街ではお巡りさんみたいなもんだ」
長老は
「お巡りさんってのは揃いも揃って、お大臣さまには頭があがらねえんだ」
お大臣とは成金連中の別称ではなく、政治家のことを指していた。古くて大きな花街には、そうしたお歴々も遊びに来る。酔って喧嘩騒ぎを起こす者も多く、警官が取りなしても逆上されて、殴られもする。駄々っ子よりも質が悪い。そんな時、立派な
「
作造は笑い飛ばしたが、章一郎は感心した。思い当たる節があったのだ。花街では昼も夜も官憲の姿を見掛けていない。遊郭の治安は任侠の徒が維持し、芸妓衆の護衛役は屈強な箱屋が担う。章一郎は不審者扱いで拘置所に押し込められて以来、官憲が苦手だった。そんな彼にとって、巽が紹介した逸話は痛快な感じがした。
「色っぽい話しはこれぐらいにして、そろそろ本題に参ろうか」
追って店に入った瞬間、章一郎は弦楽器を持つ男と目が合った。本職の流しだった。確かに、この街に実在したのだ。その流しは狼男を見て顔を引き攣らせ、その手で弾くマンドリンは不協和音を奏でた。明らかに
「桜の花が咲くのも近い」
巽はそう切り出した。時候の挨拶代わりでも、洒落て季語を挟んだのでもなく、桜の開花には重大な意味があった。花見の季節になれば、この温泉街は観光客で混み合い、一座が宿泊する
「例年よりだいぶ早くなるそうだ。旅館のほうも支度を早めるんで、そうなりゃ俺たちは、お
早めの切り上げが決定したのは、今夜の公演が終わった後で、旅館に残る
「いつ終わるのか、細かく決まってたわけじゃねえ。お次は、甲州街道沿いの
都下にある金毘羅神社は、春の祭礼に合わせて毎年立ち寄る場所だ。その時期、曲芸団は帝都の西を巡り、後にゆっくり北上する。今年はこの温泉街での興行が入ったが、縁日が軸であることに変わりはない。
「こないだ、公演がいつ終わるのかって誰かに聞かれて、太夫元が『桜の蕾の機嫌次第』って答えたら、えらい剣幕で怒られたって言ってたな」
耶絵子に間違いない。冗談に聞こえたのだろうが、実際にその通りで、予定が決まっていたわけでないのだ。なぜ耶絵子は公演の最終日を知りたかったのだろうか、と章一郎は不思議に思い、そして、はたと気付く。大事なことを忘れていた。
「止むを得ない。お姫さんには、そっとしておいて貰って…いずれ良くなったら、迎えを出すそうだ。ここなら帝都から汽車一本で来れるし、女将も任されたと言ってくれた」
要するに置き去りが決定したのだ。千秋楽は六日後で、それ以前に
強く歯軋りしても知恵は出ず、無為無策で拱手傍観するしかない。自分もまた、置き去りにして離れる非情な連中の一人だ。作造も巽も口数少なく、飲む酒の量だけが増えた。
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