『一寸法師が恋をした日』

 その男が現れたのは、出稼ぎを始めて三日目の昼下がりだった。


 曲芸団が温泉街を去る日が決まり、章一郎と作造が出稼ぎに出る回数にも限りが見えた。最も効率よく宴席を巡回しても舞台は十数本で、悪ければ数本で終わる。裏家業としては充分だったが、欲が出る。そんな二人の焦りにつけ込むかのように、堂上どうがみは午後の暇な時間帯も有効に使うよう勧めてきた。海沿いの公園に大道芸人が集まる場所があるという。


 目抜き通りの始まり附近から浜辺に向かって直ぐのところに臨海公園があった。彩雲閣さいうんかくからも比較的近く、福助も付いて来た。冷やかしだ、と言いつつも、ずた袋を担いでいる。中には皿回しの小道具一式が入っていて、あわよくば自分も芸を披露する魂胆だ。


 観衆と呼べる程の人数は居なかった。海沿いを散歩する観光客が立ち止まって、景色の代わりに眺めているといった感じで、歓声も拍手もない。大道芸もパントマイムや腹話術など地味なものばかりで、素人の練習に近かった。それぞれ空き缶を前に置いているものの、硬貨が跳ねる音はしない。


 作造は宴席と同様に瓦を割って拍手を頂戴したが、やはり小銭も飛ばない。瓦は夜に取っておくと言って二枚だけ割り、早々に退いた。福助は大道芸人を鼻で笑って、ずた袋の紐を解くこともなかった。


 その中で、章一郎は注目を集め、人々をどよめかせた。全身を毛で覆い尽くされた狼男は明るい青空の下、ますます異様で、婦人は震え、子供は泣いた。悪くない反応である。しかし、歌声は響かない。


 お座敷で盛り上がる大衆歌も軍歌も素通りされる。児童が喜ぶ唱歌も逆効果だった。人垣が増えて、みな目を凝らすが 耳をそばだてる者はいない。大男のように早々に見切りを付ける手もあったが、それも負け戦のようでしゃくだった。練習のつもりで、曲芸団の舞台でいずれ披露する予定だった曲を最後に歌った。優雅な旋律の『サンタ・ルチア』という外国の民謡だ。


「素晴らしいテノールのカンツォーネなのです。見事だ、見事すぎるのです」


 いつから人垣の中に紛れていたのか、その男は歌い終えた章一郎に握手を求め、激賞した。四十過ぎの中年で、気障な感じもする縦縞の背広を羽織っている。


「その歌声を聴けば判るのです。ユーは本職の歌い手だろうと。いったいどこの交響楽団で歌われていらっしゃるのですか」


 矢継ぎ早に言った。章一郎が曲芸団に所属していると答えると、その男は一座を知っていると話す。畸型を怖れないのか、腕の剛毛をベタベタと触り、声域がどうのとか専門的な用語を交えて捲し立てる。


 余りの褒めっぷりに章一郎は圧倒され、恥ずかしさも募った。思わず俯いて、隣を見ると福助が唖然とした表情で立ち尽くしていた。何かを凝視しているようだった。視線の先、中年男に隠れるようにして一人の娘が居た。鮮烈な印象を受ける美しい少女だった。


 前に春子が街中で見たという美少女の話しを思い出した。細かいところは忘れたが、外国のお人形みたいと言っていた覚えがある。男の背後に控える娘は、確かにその表現が相応しく、髪は巻き毛で少し茶色がかっている。長くはないが、ふんわりしていて、見たことのない特徴的な髪型だった。肌は蝋人形のように白い。


 そして、やけに短いスカートに、黒天鵞絨くろびろうどの上着を纏っている。肩には偉い軍人さんのような黄色の飾り。やや不健康にも見える細い脚に、黒光りする編み上げ靴。都会風の娘という形容では足りず、西洋の写真雑誌から飛びてて来たような異質で近寄り難い雰囲気を備えた美少女だ。


 福助は目を奪われたまま微動だにせず、人垣の男女も同様に凝視している。華奢な身体で手足も長いが、歳の頃は春子より少し上といったところか。この温泉街には未成年の舞妓も多く、見番でも見掛けた。しかし、あどけなさが残る和風の乙姫おとひめとは趣きがまったく異なる。正に、ガラスケースの中に鎮座する外国の人形だった。

  

 章一郎が見惚れてる間、中年男は盛んに喋り、褒め言葉を並び立てていたようだが、こちらも思い出した。街頭宣伝中の春子を追い回して勧誘し、耶絵子を無視して怒らせた人物だ。粘着質の気味悪い下衆男といった酷い言われ様だったが、物腰は柔らかく、身なりも紳士然としている。


「申し遅れたのですが、ミーは歌劇団を主宰している支配人で、副島そえじまと申す者なのですよ」


 妙な話し方で、その男は自己紹介した。劇団の主宰者なのか、支配人として劇場も仕切っているのか。副島と名乗る紳士はまた、帝都では少し名のしれた興行師でもあると語った。旅館の女将と主人の違いを知ったのも最近のことで、章一郎は肩書きというものに疎く、興味もない。


「あいにく名刺の類いは切らしてまして…」


 肩書きに関する理解が及ばず、章一郎が顔を曇らすと、中年の紳士は慌てて背を向き、何か小声で指図した。少女は軍服の内側から四つ折りの紙を取り出し、広げて福助に手渡した。チラシだ。そこには大きな文字で『維納聖少女歌劇団』とあった。


「ウィーンと読みます」


 美少女が喋った。変哲のない普通の日本語で、異邦人ではなかった。チラシは豪華な総天然色で、少女たちの写真も添えらていた。この温泉街での興行の為に印刷したものらしく、初回公演の日付が書かれている。曲芸団より少し前に来て、上演していたようだ。


「さてさて、ユーは曲芸団でどんな歌を歌っておられる者なのですか。曲芸団さんの公演を見に行く前に、是非とも知っておきたいのです」


 章一郎を指差して言った。若干失礼な仕草だったが、意に介す余裕はなかった。痛いところを突かれた格好である。公演を観に来てくれたとしても、舞台に自分の姿はない。今は、客の目に触れることのない裏方だ。事情があって活動休止中である旨を告げると、中年男は高々と諸手を挙げて嘆いた。


「なんと勿体無い、なんと詰まらないことでしょう。これぞ宝の持ち腐れなのです。あれほど完璧に、カンツォーネを歌いあげるテノールのシンガーをミーはほかに存じ上げません」


 次いで男は胸元で手を組み合わせ、わなわなと振るわせた。背後の少女は表情を変えず、狼男を見詰めている。凛とした立ち姿だった。言葉以上に身振り手振りで饒舌に語る背広姿の紳士と人形のように大人しい美少女。それは奇妙な対比で、稚拙な大道芸よりも見る者を惹きつけた。五人を取り囲む人垣は膨れ上がっていて、パントマイムの若者まで輪の中に混ざっている。


 章一郎は褒められて嫌な気はしないが、余りにも自分のことばかりで、無視される二人の仲間が心配になった。作造の様子を窺うと、福助同様、視線は少女に釘付けだった。


「またお逢いしましょう。ユーに相応しい檜舞台ひのきぶたいをミーは知っているのです」


 副島と名乗った男は、分厚い財布から紙幣を抜き取って、後ろの少女に渡した。少女は章一郎に歩み寄り、上着のポケットに札を入れる。見番の女の匂いとは違う、桃のような香りがした。   


 幕引きは意外にもあっけなかった。男は最後に再び握手をし、少女は軽く頭を下げて一礼し、去って行く。春子によれば、相当しつこい親父で、追っ払っても逃げ隠れしても挫けずに迫って来たというが、いま接した限り、そんな様子は微塵もなかった。


 ポケットに差し込まれた紙幣は一枚。高そうな背広を着て、ごつい皮の財布を持つ紳士にしては控えめな額だったが、章一郎が覚えた印象は悪くない。一曲分の御捻おひねりだ。それに、よく喋った割に影は薄く、強烈な存在感を放っていたのは美少女で、短いスカートを翻して去る後ろ姿が目に焼き付いて離れない。


 ひと目惚れしたのは福助だった。旅館への帰り道から公演の直前まで、貰ったチラシを眺め、うっとりしていた。女性陣が居る前では巧妙に隠し、本気度が窺えた。写真の中に彼女も写ってるはずだが、小さくて粗く、同じ髪型の似た娘も居て、決め付けるのは難しい。


「そのチラシ、耶絵子さんに見付かったら、破り捨てられるぞ」


 章一郎が珍しく冗談を言うと、福助は動揺して手を震わせた。これも実に珍しい。

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