『美少女は恭しく高級車のドアを開けた』

 翌日、福助は小人楽団のリーダーを無理やり誘って、歌劇が催されている演芸場に赴いた。章一郎はいの一番に頼み込まれたが、断った。キネマ劇場ですら躊躇ためらうのに、若い女性ばかりの芝居など恥ずかしくて入り口の前にさえ行けない。


 意気揚々と出掛けたものの、福助は程なく帰って来た。歌劇の上演は午後六時過ぎからで、ちょうど夕飯の配膳時間と重なり、その後にはソワレの準備がある。福助は諦めきれずに演芸場の裏手や附近の遊戯施設を巡ったが、劇団員によるチラシ配りはもうやっていない模様で、お目当ての子には会えなかった。


 章一郎も会いたくないと言えば嘘であるが、心情は複雑だった。出稼ぎで歩き回る夜の街で、あの副島そえじまと名乗った紳士と美少女とばったり出くわす予感がして、胸騒ぎがした。何かを恐れているようでもあり、期待しているようでもあった。自分でも良く分からない。

 

 次の日の夜、その男と少女は意外な場所に姿を見せた。暗闇からぬっと顔を出すように現れたのである。旅館の石段を下り切ったところで、二人は章一郎と作造が出て来るのを待っていた。


「再びお目に掛かれて実に光栄です。行き先までミーがお連れしたいと思うのです」


 少し興奮した感じで章一郎の手を握り、また腕の毛を撫でた。更に今回は少女も手を差し出し、握手を求めた。毛むくじゃらの手に臆する様子はない。暗くて表情は窺えなかったが、彼女の指は細く、白魚のようだった。


「お二人を車で送迎したいのですよ」


 暗闇の奥に自動車が停まっていた。田舎町では絶対に見掛けることのない外国産の大きな車で、真新しいのか、辺りは暗いのに光って見える。隣に駐車している曲芸団のトラックが酷く見窄みすぼらしく感じられた。


「こちらにお乗り下さい」


 そう言って美少女は車のドアを開けた。観音開きで、重そうに見える。ここまで来て断る理由はなく、巨人が身を屈めて乗り込み、狼男も続いた。座椅子は革張りで、外観と同様に豪華だ。西洋人はみな背丈が高いと聞いていたが、なるほど窮屈ではなく、作造が首をすくめる必要はなかった。


 運転席の副島が目的地を確認し、ゆっくり走り出す。耳障りなエンジン音はなく、振動も殆どない。えんタクに乗ることが憧れだったのに、それより早く、新品の外国車に乗った…作造も夢見心地のようで、陶然としている。


「ユーに相応しい舞台は新時代のオペラ座なのです。サーカス小屋なんかではありません」


 一方で会話の内容は生臭かった。副島は露骨に章一郎を勧誘してきたのだ。自らが率いる少女歌劇団ではなく、帝都で活動する劇団の名前を具体的に挙げ、参加を勧めた。親友の一人が近頃旗揚げした劇団で、評判もよく、必ず大人気になると言い切る。

 

「オペラの時代は終わって、オペレッタの全盛期も過ぎたのです。亞米利加の紐育ニューヨークでは斬新な歌劇が流行っていて、それをそっくり輸入したのです」


 大衆的なオペレッタよりも軽薄だが、喜劇ではなく、役者が歌って踊るものだという。ドサ廻りの芸人風情には縁遠い話しだ。どんな舞台なのか、章一郎は想像もつかないが、歌が重要で、芝居の経験は不問だということは解った。また、テノール歌手は貴重で人材が乏しく、自分が口利きすれば入団は確定したのも同然だと副島は力説した。


「面談ではねられることなんて絶対にないのです。それどころか、ユーの才能が知れたら、間違いなく、帝都の色んな劇団で争奪戦が起こるのです」


 俄には信じ難い耳寄りな話しだが、副島という人物が新旧の舞台芸術に通じ、幅広い知識を持っていることは明らかだった。興行師という肩書きに偽りはない。ただ章一郎は大きな障害になる点に関して、男が意図的に避けているようにも思えた。畸型の容姿についてである。自分はどの歌手とも違う異形の輩だ。

 

「ユーの個性なのです。その個性が素晴らしい。ミーが惚れたのは歌の才能だけではありません。舞台では際立った個性の持ち主が勝者になるのです」


 話しの途中で、目的地に着いた。続きが気になったが時間切れだ。少女は助手席から降りると小走りで駆け寄ってきて、恭しく観音開きのドアを開けた。ホテルの玄関先は明るく、そこに居た数人が一斉に、高級車と可憐な少女、そして降りて来る二人を見詰める。何事か、といった雰囲気だ。


 章一郎は恥ずかしかったが、自分が颯爽と登場した有名人であるかのように思えて、満更まんざらでもなかった。

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