『狼男は大都会の暮らしに憧憬を抱く』

 窓から景色を眺めると、走り去る汽車が見えた。目覚めは悪かったが、運は良い。この旅館に来た当初、福助は窓に張り付いて長い時間も粘っていた。汽車は一向に通らず、鉄道駅に時刻表を確かめに行ったら、プラットフォームに停車していたという。随分と前の出来事のようにも思える。


 いま過ぎた汽車は上りだ。この街から乗り継ぎなしで帝都まで行ける。どのくらい時間が掛かって、運賃はいくらなのか、まったく知らないが、そう遠くはない。これまで自分とは無関係で、特に興味のなかった大都会が身近に、手の届くところにあるように感じられた。


「劇団は都心に寮を持っていて、ユーもそこに住めるのです」


 三度目に会った際、副島そえじまはそう語った。衣食住の心配はない。それどころか、都会の人間の暮らしを満喫できるというのだ。魅力的な提案で心も高鳴るが、おいそれと返事はできなかった。


 章一郎は誰にも相談できず、煩悶はんもんした。日々の雑多な事柄なら同世代の福助や耶絵子に意見を聞くが、重みが違う。それに出稼ぎが明るみになってから、曲芸団が誇る美女とは会話をしていなかった。尚も怒り心頭で目も会わせてくれないというわけではない。章一郎が一方的に避け、逃げ隠れしている状態だ。転職を考えているなどと言えば、今度こそ本気で張り倒され、声を出して泣かれるに違いない。


 長老のたつみや有識者の柏原も悪い相談相手ではないだろう。しかし、進退伺いをしたところで、引き留められるのは目に見えている。章一郎には、新しい歌劇云々という副島が話した内容を彼らに正確に伝える自信はなかった。一蹴され、説教を喰らってお仕舞いだ。


 親身になって章一郎の相談を受けてくれる相手は、恐らく深川と瑞穂みずほだった。太夫元と折り入って話し合ったのは、前の巡業地に遡り、以降は会話らしい会話もしていない。


 自分にとって重要な二人をほぼ同時に失ってしまった…章一郎は、この温泉街に来る直前に重大な転機があったとも考える。瑞穂が血を吐いて意識朦朧となり、太夫元に詰め寄り、最後は自分が座員たちに非難された。あの峠の一幕を恨めしく思い出す。


「おいらは知らないけど、新入りの兵隊さんが暮らすとこみたいのじゃないかい」


「そうなのか。長屋でも宿屋でもなくって、お相撲さんが住む部屋のようなもんだと思ってたが、別なのかな」


 福助と作造が箸をつつきながら話している。一同が揃う朝食の席では、危険な、冷や冷やする話題だった。副島が紹介した劇団の寮について、大男は強い関心を抱いたようで、昨晩は宴席の待ち時間や帰りの道で何度となく、章一郎に尋ねてきたのだ。


 劇団寮に加え、寄宿舎という呼び方もしていて、さらに混乱を招いた。仲間が共同生活をして、稽古もする。章一郎は相撲部屋を想像し、そう作造に説明したが、的確ではないようにも思える。


「お相撲さんは帝都の下町に住んでるんだって。山奥や野っ原じゃなくて町の中だ。ひとつところに暮らすってのは、楽ちんそうで、面倒なこともない」


 福助は定住に憧れていた。幼い頃から曲芸団で過ごし、町や村での暮らしを知らない。章一郎も同じ境遇で、互いの関心事は一致した。その点、作造は違う。村一番の怪力少年として名を馳せ、周りの集落からやって来た腕自慢の荒くれ者をばったばったとぎ倒したという。武勇伝の真偽は判らないものの、とある村で長く生活していたことは確かである。


 それにしても章一郎にとっては肝を冷やす内容の話しだった。朝食の席は騒々しいが、聞き耳を立てている者が居ないとも限らない。幸いにも、話をし一番聞かれたくない耶絵子は遠くの席に座っている。


 今朝だけ偶々たまたま離れていたのではない。従来の配膳時は仲間同士が近い席に座って食事を取った。例外もあったが、ごく自然にそうなったのだ。しかし今は、指定席が大幅に狂って、作造の隣りでは堂上どうがみ胡座あぐらをかく。毛嫌いしていた奇術師と宿で同じ席を囲む日が来るとは、想像だにしていなかった。


 章一郎と作造の裏稼業が暴かれたのを境に、曲芸団は三つに分裂した。出稼ぎに勤しむ者たちと、猛反発する一派、そして特に意見を持たない無関心層。女性陣は反対派の急先鋒で、福助や巽は中立派だった。


 この温泉街を去る日も近い。いつもの巡業に戻れば出稼ぎ仕事もなく、次第に落ち着いて以前と同じになる…章一郎は安易に考えていたが、柏原は深刻に捉えていて、再三、こう警告した。


「取り返しのつかないことになる」


 難解な言い回しで真意は推し量れなかったが、小人楽団のリーダーは、一座の優等生が裏稼業に手を染めたことで、全体の調和が崩れ、曲芸団の道徳と倫理が失われたと説く。優等生とは章一郎を指す。本人は大袈裟だと思ったが、あながち的外れとも言い切れない。


 堂上は敵の多い嫌われ者で、こっそり副収入を得ていても誰も驚かない。元から邪道を歩む悪役である。百貫女も道楽好きの阿婆擦あばずれで、人望はなく、旦那の骸骨男も似たようなものだった。だが章一郎は彼ら不良組とは対照的に、真面目な性格が取り柄で、座員からの信頼も厚かった。裏切られたと感じる者も少なくないはずである。


「自分こそが曲芸団の一番の破壊者なのではないか…」


 章一郎はそんな思いに捕らわれた。柏原が言っていたことも耶絵子の出稼ぎを知って涙した意味も、何となく汲み取れる。倫理とかいった高尚な事柄は分からないにせよ、一座の風紀をかき乱す張本人が自分だ。


 横領疑惑が持ち上がった時、堂上は危険分子さながらに扱き下ろされていた。芸のない手品師で、曲芸団に得はなく、寧ろ居ないほうが良いとまで言われた。生産性のない破壊者である。


 あんな居候いそうろうもどきと同じにされたら堪ったものではない、と章一郎は苦笑したが、同時に冷酷な現実を知る。今や自分も曲芸団の冷や飯食いだ。しかも手品師よりも劣っている。堂上は前座格であっても奇術を披露し、美女の水中縄抜けでも役割を果たす。


 それに比べ、自分は半人前の道具方で、舞台に登ることも、木戸で客を遇らうこともない木偶でくの坊だ。一座を抜けたところで興行には何の支障もきたさない…


 章一郎は悪魔の囁きを耳にした。賢くて、分別がある悪魔に思えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る