『狼男は大都会の暮らしに憧憬を抱く』
窓から景色を眺めると、走り去る汽車が見えた。目覚めは悪かったが、運は良い。この旅館に来た当初、福助は窓に張り付いて長い時間も粘っていた。汽車は一向に通らず、鉄道駅に時刻表を確かめに行ったら、プラットフォームに停車していたという。随分と前の出来事のようにも思える。
いま過ぎた汽車は上りだ。この街から乗り継ぎなしで帝都まで行ける。どのくらい時間が掛かって、運賃はいくらなのか、まったく知らないが、そう遠くはない。これまで自分とは無関係で、特に興味のなかった大都会が身近に、手の届くところにあるように感じられた。
「劇団は都心に寮を持っていて、ユーもそこに住めるのです」
三度目に会った際、
章一郎は誰にも相談できず、
長老の
親身になって章一郎の相談を受けてくれる相手は、恐らく深川と
自分にとって重要な二人をほぼ同時に失ってしまった…章一郎は、この温泉街に来る直前に重大な転機があったとも考える。瑞穂が血を吐いて意識朦朧となり、太夫元に詰め寄り、最後は自分が座員たちに非難された。あの峠の一幕を恨めしく思い出す。
「おいらは知らないけど、新入りの兵隊さんが暮らすとこみたいのじゃないかい」
「そうなのか。長屋でも宿屋でもなくって、お相撲さんが住む部屋のようなもんだと思ってたが、別なのかな」
福助と作造が箸をつつきながら話している。一同が揃う朝食の席では、危険な、冷や冷やする話題だった。副島が紹介した劇団の寮について、大男は強い関心を抱いたようで、昨晩は宴席の待ち時間や帰りの道で何度となく、章一郎に尋ねてきたのだ。
劇団寮に加え、寄宿舎という呼び方もしていて、さらに混乱を招いた。仲間が共同生活をして、稽古もする。章一郎は相撲部屋を想像し、そう作造に説明したが、的確ではないようにも思える。
「お相撲さんは帝都の下町に住んでるんだって。山奥や野っ原じゃなくて町の中だ。ひとつところに暮らすってのは、楽ちんそうで、面倒なこともない」
福助は定住に憧れていた。幼い頃から曲芸団で過ごし、町や村での暮らしを知らない。章一郎も同じ境遇で、互いの関心事は一致した。その点、作造は違う。村一番の怪力少年として名を馳せ、周りの集落からやって来た腕自慢の荒くれ者をばったばったと
それにしても章一郎にとっては肝を冷やす内容の話しだった。朝食の席は騒々しいが、聞き耳を立てている者が居ないとも限らない。幸いにも、話をし一番聞かれたくない耶絵子は遠くの席に座っている。
今朝だけ
章一郎と作造の裏稼業が暴かれたのを境に、曲芸団は三つに分裂した。出稼ぎに勤しむ者たちと、猛反発する一派、そして特に意見を持たない無関心層。女性陣は反対派の急先鋒で、福助や巽は中立派だった。
この温泉街を去る日も近い。いつもの巡業に戻れば出稼ぎ仕事もなく、次第に落ち着いて以前と同じになる…章一郎は安易に考えていたが、柏原は深刻に捉えていて、再三、こう警告した。
「取り返しのつかないことになる」
難解な言い回しで真意は推し量れなかったが、小人楽団のリーダーは、一座の優等生が裏稼業に手を染めたことで、全体の調和が崩れ、曲芸団の道徳と倫理が失われたと説く。優等生とは章一郎を指す。本人は大袈裟だと思ったが、あながち的外れとも言い切れない。
堂上は敵の多い嫌われ者で、こっそり副収入を得ていても誰も驚かない。元から邪道を歩む悪役である。百貫女も道楽好きの
「自分こそが曲芸団の一番の破壊者なのではないか…」
章一郎はそんな思いに捕らわれた。柏原が言っていたことも耶絵子の出稼ぎを知って涙した意味も、何となく汲み取れる。倫理とかいった高尚な事柄は分からないにせよ、一座の風紀をかき乱す張本人が自分だ。
横領疑惑が持ち上がった時、堂上は危険分子さながらに扱き下ろされていた。芸のない手品師で、曲芸団に得はなく、寧ろ居ないほうが良いとまで言われた。生産性のない破壊者である。
あんな
それに比べ、自分は半人前の道具方で、舞台に登ることも、木戸で客を遇らうこともない
章一郎は悪魔の囁きを耳にした。賢くて、分別がある悪魔に思えた。
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