第七章
『白昼の夜叉が恐喝する廊下の奥』
「なんだか大騒ぎになってて、いっぱい集まってる」
小さな身体が転がるように部屋に飛び込んで来た。手に持つ袋から砂粒が溢れている。福助はマチネの後、貝殻を集めに海岸へ出掛けた。そして、宿に戻ったら入り口の辺りに大勢居て揉めていた、と話す。
砂を辿って行くと、玄関脇の応接室の前に出来た
「だったら
「ちょっと事情を説明するわ」
春子と並び立っていた耶絵子は、入り口で中を覗き込む章一郎に気付き、寄って来た。ひそひそ話しではない。その声は太夫元や女将らに届く大きさだった。
「せめて声だけも聞きたくて医院に電話をしたのよ。そうしたら、もうそこには居なくて、転院したって教えられたの。びっくりよ」
保養院だか療養施設だかに瑞穂は移されたのだという。転院先が温泉街から南に下った箇所の高原であることも判った。大きな街の立派な医院で満足に治療できなかった病気が、辺鄙な場所の施設で治るものか…章一郎は不安に駆られた。
「わたしが尋ねなかったら、誰も知らないままよ。そんなの有り得ないわ」
面会が叶わなくとも、電話でなら話せるのではないか。耶絵子はそう考えて、旅館の電話を借りたのだという。妙案である。絶対安静の時期が過ぎれば、電話口に出て来ることは可能だろう。女性陣の熱意が実った結果であったが、そこで伝えられた事実は予想外だった。
問題は、太夫元が転院を知りながら、座員一同に黙っていたことだ。春子はそれに憤って相手を責め、ついには転院先に出向くと言い出した。街中の医院のように休憩時間を使って歩いて行かれる範囲にはない。番頭によれば、施設は交通が不便な場所にあって、日帰りの往復も難しいという。
そこで春子は千秋楽の後、この街に独り残って逢いに行くと主張し、新たな悶着を引き起こしていた。太夫元は一方的に責め立てらているのではなく、無理な主張をする若い娘を
「そんな春ちゃん、思い付きで言ったらダメでしょ。あなた独りが取り残されちゃうこともあるのよ。わたしたちは流れ者なんだから、一度はぐれたら二度と会えなくなるかも知れないの」
「独りでだって生きて行けるもの。お給仕さんとかお針子さんとか。そうね、舞妓さんも悪くないわ」
「舞妓さんって、誰でもなれるものじゃないのよ。それにお店で働くっていっても住むところはどうするの。下手したら、宿なし文無し身寄りなしのルンペンになっちゃう」
説得する珠代に尚も春子は食い下がったが、女将が止めに入った。最初に転院を了承したのは自分で、今後については任せてくれと懇々と説く。曲芸団は病人を見捨てたのではなく、密に連絡を取り合うと約束した。大切なのは、復帰を少しも疑わず、早く全快するのを祈ることだと優しく諭す。
春子は大人しく頷き、問着はひと段落した。さすが女将だ。章一郎が感心していると、耶絵子に首根っこを掴まれ、廊下の奥に連行された。嫌な予感しかしない。今度は自分が糾弾される番だ。
「どれだけ稼いだのか知らないけど、あぶく銭を全部差し出しなさい」
叱られることはあっても、まさか
「そんな
章一郎は一瞬で観念した。真っ昼間に夜叉が出た。問答無用、絶対に譲らぬといった気迫が
「用具入れに仕舞ってあるので、いま取って来ます」
部屋に戻ろうとすると、もう一度襟を掴まれた。鬼の形相から一変して、耶絵子は笑っていた。
「嘘よ、冗談よ」
迫真の演技だった。
「盗みを働いたわけじゃないでしょ。稼ぎを取り上げたりしないわよ。わたしが言っておきたいのは、賭け事とか無駄遣いしちゃダメってこと。いつか必要になる時の為に大切に取っておきない。分かったかしら、章ちゃん」
章一郎は期待に背いただけではなく、強い意思で明確に裏切ったのだ。その罪悪感が募り、
「夜のお散歩はもう終わりなんでしょ」
「あと一回だけです。今晩で最後です」
一回というのは本当だった。今日が最終日で、遠征先は一箇所だと堂上から通達されていた。初日に行った大きなホテルの宴席。それで終わりだ。それで終わりになる。
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