第七章

『白昼の夜叉が恐喝する廊下の奥』

「なんだか大騒ぎになってて、いっぱい集まってる」


 小さな身体が転がるように部屋に飛び込んで来た。手に持つ袋から砂粒が溢れている。福助はマチネの後、貝殻を集めに海岸へ出掛けた。そして、宿に戻ったら入り口の辺りに大勢居て揉めていた、と話す。


 砂を辿って行くと、玄関脇の応接室の前に出来た人集ひとだかりが目に飛び込んで来た。道具方など全員が曲芸団の仲間である。春子の声が聞こえた。ひどく興奮しているのか、うわずった金切り声だ。


「だったら一昨日おとついでもその前でも、お見舞いに行って逢いたかったの。見送るぐらいなら出来たでしょ」


 瑞穂みずほの件で何らかの動きがあったらしい。ソファに浅く座る太夫元を仁王立ちの春子が見下ろしていた。女性陣が取り巻き、年長者の男性を糾弾している構図だ。玄関脇のその部屋は事務所になっていて、普段は女将と番頭が詰めている。その二人は隅で、困り果てたかのように口を真一文字に結ぶ。

 

 彩雲閣さいうんかくに到着した日、この部屋に瑞穂が運び込まれ、同じソファに横たえられていた。顔面蒼白で吐く息も荒く、会話はおろか、呼び掛けの声に反応することもなかった。思い返すだけで強く胸が痛む光景だ。


「ちょっと事情を説明するわ」


 春子と並び立っていた耶絵子は、入り口で中を覗き込む章一郎に気付き、寄って来た。ひそひそ話しではない。その声は太夫元や女将らに届く大きさだった。


「せめて声だけも聞きたくて医院に電話をしたのよ。そうしたら、もうそこには居なくて、転院したって教えられたの。びっくりよ」 


 保養院だか療養施設だかに瑞穂は移されたのだという。転院先が温泉街から南に下った箇所の高原であることも判った。大きな街の立派な医院で満足に治療できなかった病気が、辺鄙な場所の施設で治るものか…章一郎は不安に駆られた。


「わたしが尋ねなかったら、誰も知らないままよ。そんなの有り得ないわ」


 面会が叶わなくとも、電話でなら話せるのではないか。耶絵子はそう考えて、旅館の電話を借りたのだという。妙案である。絶対安静の時期が過ぎれば、電話口に出て来ることは可能だろう。女性陣の熱意が実った結果であったが、そこで伝えられた事実は予想外だった。


 問題は、太夫元が転院を知りながら、座員一同に黙っていたことだ。春子はそれに憤って相手を責め、ついには転院先に出向くと言い出した。街中の医院のように休憩時間を使って歩いて行かれる範囲にはない。番頭によれば、施設は交通が不便な場所にあって、日帰りの往復も難しいという。


 そこで春子は千秋楽の後、この街に独り残って逢いに行くと主張し、新たな悶着を引き起こしていた。太夫元は一方的に責め立てらているのではなく、無理な主張をする若い娘を慰撫いぶしているようでもあった。


「そんな春ちゃん、思い付きで言ったらダメでしょ。あなた独りが取り残されちゃうこともあるのよ。わたしたちは流れ者なんだから、一度はぐれたら二度と会えなくなるかも知れないの」


 珠代たまよが言い聞かせるようにたしなめた。ドサ廻りの曲芸団には根城もなく、連絡を取り合う手段もない。毎年の春や秋に決まって天幕を張る寺社はあるが、訪問は半年単位で、予定が狂う場合もある。珠代が訴える通り、二度と会えないことも充分に起こり得る。だが珠代の正論は、感情がたかぶった娘には通じない。


「独りでだって生きて行けるもの。お給仕さんとかお針子さんとか。そうね、舞妓さんも悪くないわ」 


「舞妓さんって、誰でもなれるものじゃないのよ。それにお店で働くっていっても住むところはどうするの。下手したら、宿なし文無し身寄りなしのルンペンになっちゃう」


 説得する珠代に尚も春子は食い下がったが、女将が止めに入った。最初に転院を了承したのは自分で、今後については任せてくれと懇々と説く。曲芸団は病人を見捨てたのではなく、密に連絡を取り合うと約束した。大切なのは、復帰を少しも疑わず、早く全快するのを祈ることだと優しく諭す。


 春子は大人しく頷き、問着はひと段落した。さすが女将だ。章一郎が感心していると、耶絵子に首根っこを掴まれ、廊下の奥に連行された。嫌な予感しかしない。今度は自分が糾弾される番だ。


「どれだけ稼いだのか知らないけど、あぶく銭を全部差し出しなさい」


 叱られることはあっても、まさか喝上かつあげに遭うとは思ってもいなかった。耶絵子の眼光は鋭く、冷酷で、血走っているようにも見える。錯覚でも、白昼夢でもない。  


「そんな御無体ごむたいな…せめて三分の一、いえ、半分くらいにまかりませんか」


 章一郎は一瞬で観念した。真っ昼間に夜叉が出た。問答無用、絶対に譲らぬといった気迫がほとばしっているが、儲けの総額は知る由もなく、いくらか手渡せば、全てを水に流してくれるような気もした。


「用具入れに仕舞ってあるので、いま取って来ます」


 部屋に戻ろうとすると、もう一度襟を掴まれた。鬼の形相から一変して、耶絵子は笑っていた。


「嘘よ、冗談よ」


 迫真の演技だった。揶揄からかわれていたのだが、有無を言わさぬ凄みがあった。狼男が本気で震え上がったのも無理はない。これまで章一郎は耶絵子に逆らうことなく、指示には素直に従い、口答えした覚えもない。頭ごなしに怒鳴られ、詰め寄られた経験などなかった。曲芸団随一の美女は、いつだって頼りになる少し年上の女性だった。


「盗みを働いたわけじゃないでしょ。稼ぎを取り上げたりしないわよ。わたしが言っておきたいのは、賭け事とか無駄遣いしちゃダメってこと。いつか必要になる時の為に大切に取っておきない。分かったかしら、章ちゃん」


 章一郎は期待に背いただけではなく、強い意思で明確に裏切ったのだ。その罪悪感が募り、おりのように凝り固まり、判断力を鈍らせていた。話したのは何日ぶりだろうか。耶絵子の笑顔に触れて安堵する自分に気付く。今朝方の決断は揺らいだ。


「夜のお散歩はもう終わりなんでしょ」


「あと一回だけです。今晩で最後です」


 一回というのは本当だった。今日が最終日で、遠征先は一箇所だと堂上から通達されていた。初日に行った大きなホテルの宴席。それで終わりだ。それで終わりになる。

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