『新天地を目指す裏切り者の遊戯』
「ボンソワール。ご両人、お待ちしていたのです」
遊戯施設の
例の美少女も一緒だ。待つ間、球を
杞憂だった。狼男に好奇の視線が注がれたのは一瞬で、男どもは少女をちらちら見て、ほかに余念がない。
「一回撞いて、二つ以上の球に当てれば良いのです」
挨拶もそこそこに競技規則の説明を始めた。台の上には赤い球が二つと黄色い球、白い球がある。副島は見事な
この日の夜、
最後の出稼ぎ舞台が
作造は人力車に乗りたいようだったが、附近には見当たらず、探しながら歩くと、道のりの中程になってしまった。目抜き通りの奥方には遊戯施設の大きな看板も見える。
歩く間も、章一郎の意志は固まらず、揺れ動いた。千秋楽まで残り二日。この機会を逃せば、夢は泡と消える。どこかの巡業先で歌劇団と巡り合うことは絶対にない。けれども、それは曲芸団との永別を意味するのだ。焦りと同時に、惜別の念も募る。
決断できないまま、遊戯施設に到着したのである。副島は撞球の指導に熱心で、主題を切り出さない。手本を示して撞き方の基本を初心者に教え、次に狙い所や球の動きについて詳しく語る。単純なようで、難しい。
章一郎が美少女と対戦していた時、副島が予想外の提案をした。作造を自分の歌劇団に勧誘したのだ。裏方ではあるが、舞台係や荷役ではなく、用心棒として招聘したいと申し出た。
「公演の合間に観客と触れ合う催しをやっているのですが、危険な香りがする変な目の持ち主も多いのです。ユーみたいな荒武者が側に居たら安心で、打ってつけなのです」
驚いて手元が狂い、章一郎が撞いた球は大きく跳ねて台の外に飛び出ていった。自分ではなく、連れを誘ってきた…さらに、劇団員と一緒に暮らして、寮の警備も担当して欲しいと訴える。
作造は即答を避けたが、寮という単語に強く反応しているようだった。唐突な求めに作造は戸惑っているのか、再三、章一郎に目配りした。助言を求めていることは判ったが、自分に口を挟む資格はなく、また適切な言葉も見付からない。
仕上げの総当たり戦は熟練者の圧勝に終わった。軍装の美少女は筋が良いのか、次第に撞き方も様になって得点を重ね、準優勝を飾った。副島は今までより開けっ広げに色々と話したが、章一郎を直接勧誘することなく、作造を口説いた。テノールの狼男を諦めたのではない。別れ際に、こう締め括った。
「この街で出会ったのは運命なのです。それを引き寄せたのはユーたちで、ミーは端役に過ぎないのかも知れません。運命が素晴らしいものであると信じるのです」
帰り道、作造は上機嫌で、いつになく
「寮ってとこは三食付きで、風呂も毎日入れるんだそうだ。突っ立てるだけってのは芸がないけど、用心棒ってのも悪かぁない」
好意的に受け止めている。俸給についての言及はなかったが、もうひと押しされれば、即決しそうな勢いだ。章一郎は大男が一寸法師よりも強く定住に憧れていることを知った。生まれついての漂泊者と違い、作造は村育ちで、その暮らしを懐かしむ思いもあるのだろう。
章一郎は不安に襲われた。自分が足抜けしたところで曲芸団に実害はない。しかし、作造は一座に欠かせない重要な人物だ。その怪力芸に定評があるだけではなく、大男は設営作業でも主役を担う。天幕の大黒柱を打ち立て、重たい水槽の出し入れでも大活躍する。作造が居なくなったら、耶絵子の水中縄抜けも番組表から消えてしまうかも知れない。
「遊郭じゃあるまいし、劇団の用心棒なんて聞いたことがない」
本末転倒の引き止め役になった。作造まで
己の身の振り方については優柔不断だったが、仲間の出処進退は直ちに意見できた。勢いで辞めるのは無謀で無責任である。作造の転職を許さず、一方で自分に関しては都合良く取り扱う…卑怯で浅ましい態度だ。
「新天地が待ってるぞ」
ほかに誰も居ない真夜中の坂道で、作造が吠えた。新天地なんか最初から存在していないのだ。諦めるしかない。自分が曲芸団に留まれば、作造も素直に従うだろう。率先して断念するより他ない。酩酊して浮かれる大男を眺めて、急速に酔いが醒めるような感覚に見舞われた。
<注釈>
*撞球場=ビリヤード場。昭和十年代は四ツ玉などが主流だった。
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