『新天地を目指す裏切り者の遊戯』

「ボンソワール。ご両人、お待ちしていたのです」


 遊戯施設の撞球場どうきゅうじょう*で、副島は二人を迎えた。握手ではなく、両手を大きく広げて抱き付いてきた。異国の風習らしいが、いちいち振る舞いが派手で、周囲の遊び人たちも目を剥く。章一郎にとって、公衆の面前で注目を浴びることは危険で、極力避けたいが、お構いなしのようだった。


 例の美少女も一緒だ。待つ間、球をいてたのか、競技用の細長い棒を手にしている。これまでと違う薄墨色うすずみいろをした天鵞絨びろうどの上着だったが、やはり軍服調で、黒いスカートの丈は異常に短い。


 杞憂だった。狼男に好奇の視線が注がれたのは一瞬で、男どもは少女をちらちら見て、ほかに余念がない。


「一回撞いて、二つ以上の球に当てれば良いのです」


 挨拶もそこそこに競技規則の説明を始めた。台の上には赤い球が二つと黄色い球、白い球がある。副島は見事な手捌てさばきで次々に当てたが、少女のほうは下手っぴだった。赤い球に当たらないどころか、棒の先端が擦れて手球てだまが前に進まないこともあった。失敗すると小さな悲鳴を上げて、それがまた可愛らしい。


 この日の夜、彩雲閣さいうんかく下の駐車場に外国産の車はなかった。副島と少女は連日、公演後に出て来るの待ち構えていたが、姿はなく、章一郎と作造はそのまま遠征先にホテルに赴いた。


 最後の出稼ぎ舞台がつつがなく終了して宴席を去る時、お座敷を仕切る責任者から、副島が市中の遊戯施設で待っているという旨の伝言を告げられ、茶封筒を渡された。車代だった。


 作造は人力車に乗りたいようだったが、附近には見当たらず、探しながら歩くと、道のりの中程になってしまった。目抜き通りの奥方には遊戯施設の大きな看板も見える。


 歩く間も、章一郎の意志は固まらず、揺れ動いた。千秋楽まで残り二日。この機会を逃せば、夢は泡と消える。どこかの巡業先で歌劇団と巡り合うことは絶対にない。けれども、それは曲芸団との永別を意味するのだ。焦りと同時に、惜別の念も募る。


 決断できないまま、遊戯施設に到着したのである。副島は撞球の指導に熱心で、主題を切り出さない。手本を示して撞き方の基本を初心者に教え、次に狙い所や球の動きについて詳しく語る。単純なようで、難しい。

 

 章一郎が美少女と対戦していた時、副島が予想外の提案をした。作造を自分の歌劇団に勧誘したのだ。裏方ではあるが、舞台係や荷役ではなく、用心棒として招聘したいと申し出た。


「公演の合間に観客と触れ合う催しをやっているのですが、危険な香りがする変な目の持ち主も多いのです。ユーみたいな荒武者が側に居たら安心で、打ってつけなのです」


 驚いて手元が狂い、章一郎が撞いた球は大きく跳ねて台の外に飛び出ていった。自分ではなく、連れを誘ってきた…さらに、劇団員と一緒に暮らして、寮の警備も担当して欲しいと訴える。


 作造は即答を避けたが、寮という単語に強く反応しているようだった。唐突な求めに作造は戸惑っているのか、再三、章一郎に目配りした。助言を求めていることは判ったが、自分に口を挟む資格はなく、また適切な言葉も見付からない。


 仕上げの総当たり戦は熟練者の圧勝に終わった。軍装の美少女は筋が良いのか、次第に撞き方も様になって得点を重ね、準優勝を飾った。副島は今までより開けっ広げに色々と話したが、章一郎を直接勧誘することなく、作造を口説いた。テノールの狼男を諦めたのではない。別れ際に、こう締め括った。


「この街で出会ったのは運命なのです。それを引き寄せたのはユーたちで、ミーは端役に過ぎないのかも知れません。運命が素晴らしいものであると信じるのです」


 帰り道、作造は上機嫌で、いつになく饒舌じょうぜつだった。撞球場では酒も出していて、何杯も奢って貰っていた。危なっかしい千鳥足が、軽快な踊りのようにも見える。


「寮ってとこは三食付きで、風呂も毎日入れるんだそうだ。突っ立てるだけってのは芸がないけど、用心棒ってのも悪かぁない」


 好意的に受け止めている。俸給についての言及はなかったが、もうひと押しされれば、即決しそうな勢いだ。章一郎は大男が一寸法師よりも強く定住に憧れていることを知った。生まれついての漂泊者と違い、作造は村育ちで、その暮らしを懐かしむ思いもあるのだろう。


 章一郎は不安に襲われた。自分が足抜けしたところで曲芸団に実害はない。しかし、作造は一座に欠かせない重要な人物だ。その怪力芸に定評があるだけではなく、大男は設営作業でも主役を担う。天幕の大黒柱を打ち立て、重たい水槽の出し入れでも大活躍する。作造が居なくなったら、耶絵子の水中縄抜けも番組表から消えてしまうかも知れない。


「遊郭じゃあるまいし、劇団の用心棒なんて聞いたことがない」


 本末転倒の引き止め役になった。作造まで遁走とんそうすれば、曲芸団は早晩崩壊する。もはや独りの問題ではなくなった。引き金となったのは自分で、このままでは本当の、残酷な破壊者に成り果ててしまう。酔っ払いの巨人は馬耳東風で、鼻歌まで歌い出す。


 己の身の振り方については優柔不断だったが、仲間の出処進退は直ちに意見できた。勢いで辞めるのは無謀で無責任である。作造の転職を許さず、一方で自分に関しては都合良く取り扱う…卑怯で浅ましい態度だ。


「新天地が待ってるぞ」


 ほかに誰も居ない真夜中の坂道で、作造が吠えた。新天地なんか最初から存在していないのだ。諦めるしかない。自分が曲芸団に留まれば、作造も素直に従うだろう。率先して断念するより他ない。酩酊して浮かれる大男を眺めて、急速に酔いが醒めるような感覚に見舞われた。 



<注釈>

*撞球場=ビリヤード場。昭和十年代は四ツ玉などが主流だった。

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