『狼男が肩を貸す花魁道中』
踊り場ですれ違った三人組の
目立つのは隣の耶絵子のほうで、女たちの眼差しは鋭く、
「この三味線の
当人は周囲の視線をまったく気に留めず、初めての場所に興味津々の様子だ。見番には、舞妓と呼ばれる見習いや新入りの芸妓が三味線の弾き方、舞踊や唄を学ぶ
「小紫大紫でございます。こちらのでっかいのが
聞き慣れた声、お馴染みの前口上だった。大きく開いた襖の向こうに広い座敷が見える。二人が構わずに入ると、奥の小さな舞台に百巻女と骸骨男の姿があった。こんなところで堂々と漫才を披露している。しかも、受けが良いようだ。耶絵子は目を丸くし、章一郎は狐に摘まれた。
座敷には、正座して眺める女も居れば、着崩して寛ぐ女、果ては寝そべる女の姿もあった。いずれも芸妓である。女性ばかりで、立ち入りは
「あの、ちょっとお伺いしても宜しいですか」
広間に入ろうとする芸妓を耶絵子が呼び止め、わけを尋ねた。名も知られぬ曲芸団の芸人が、縁もゆかりもない温泉街の特別な施設で、漫才を演じているのだ。何ひとつ理解できない。
「待合室みたいなもんどす。寄席とはちゃいますけど、そんなふうな
稽古場を兼ねた控室で、芸妓はお座敷に呼ばれるのをここで待つのだという。暇を持て余す女衆を相手に、芸人が来ることも多かった。修行中の
「流しの兄さんが来はることは、ありゃしませんけど」
その芸妓は三河訛りに京言葉を添えて、よく喋った。章一郎を本職の流しだと信じ込んでいるようで、物珍しそうに背中を弦楽器を眺めた。ほかの女衆と同様に、耶絵子を見る目は若干険しい。
舞台では、骸骨男が
「小柴大柴でございます。手前のちびっこいのが大柴で、わちきが小柴、勝山小柴でありんす」
受けていた。入室者が増えたのを見計らって、百貫女は改めて自己紹介し、二本目の漫才を始めた。最近の公演では滅多に演じないネタだった。
「なんともまあ煽り立てるような名前で、面白いこと」
百貫女の芸名は姓も名も、江戸の高明な
「なんで章一郎まで、こんなところにおるんだ」
「それはこっちが聞きたい台詞よ」
呆れた顔をして、耶絵子は言った。二人は襖の陰で待ち伏せし、漫才を終えて出て来た百貫女と骸骨男の前で仁王立ちした。凸凹夫婦は悪びれる様子もなく、昨晩から見番に通っていると明かす。
「いい稼ぎになるって話しでね。昼は客も少ねえし、こんなもんだろうけども、本番は夜さ」
さっきの芸妓が説明した通り、ここには芸人が勝手に来て腕試しするだけで、出演料はない。しかし、
御捻り目当てで夫婦が出張していることは章一郎はすぐ理解できたものの、疑問が残る。骸骨男こと大柴は、切符も良く取っ付き易いが、臆病者で頭の回転は遅く、悪知恵が働く人間ではない。女房のほうも賢くはなく、ただの飲んだくれで似たようなものだ。見番で漫才を披露して小遣い稼ぎをするといった考えが自然に浮かぶわけもない。
背後で糸を引く
「
案の定、
「稼げるとか言っても、これ、太夫元は知らないんでしょ。内緒でやってるのよね」
耶絵子が声を張り上げると、広間に居た芸妓が廊下に出てきた。女同士の喧嘩だ。女衆の言い争いは珍しくもないが、漫才師の肥満女と場違いな格好をした美人が揉めている。もっとやれ、と年増が囃し立てた。
「堂上だって隠れて儲けてるのよ。あの男、着いた次の日から出掛けて行って、なんか高そうなホテルとかで、手品してるんだって。あんな子供騙しで小遣い稼げるなんて、そりゃ誰でも真似したくなるわよ」
百貫女は開き直った。今度は黒いドレスの女が追い詰められている。野次馬がさらに増えて、章一郎は居た堪れなくなった。耶絵子も周囲の下衆な視線に気付いたようで、それ以上言い返さず、悔しそうに唇を噛む。
騒ぎを聞き付けて、階下から見番の
人力車が凸凹夫婦を待っていたのだ。
近場なら昔ながらの
「途中で絶対に壊れるわ。牛一頭乗せてるのと同じだもの」
聞こえるような声で、耶絵子が言った。ぎしりと軋む音がしたが、俥夫は苦もなく人力車を引き、その後ろを骸骨男がとぼとぼ歩いて追って行く。百貫女は旅館の階段を昇るのさえ大儀そうで、やや離れた花街までどうやって移動するのか謎だったが、種を明かせば仕掛けは単純だ。
けれども人力車の運賃はそれなりに高そうで、街の住民は利用していない。しかも日に二度往復するという。見番の出演は結構な稼ぎになるのか、などと章一郎が想像を膨らませていると、呼ぶ声がした。俥夫である。
「
親方の粋な計らいだった。運賃はもう頂戴しているという。二人して、美しい朱の座席に収まる。ほかの箱屋も附近の通行人も、物珍しそうに眺め、滑り出す人力車を見送った。耶絵子は今しがたの喧嘩騒ぎを忘れて、上機嫌のようだ。
「素敵だわ。まるで花魁道中みたいね」
二人掛けだと座席はやや窮屈で、身体が密着した。流れる街の景色を堪能する余裕はない。章一郎は照れ臭くて仕方がなかった。
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