『楽屋裏のひめごと』

 壁に貼られた演目の進行表を確かめて、時計を見る。楽屋裏の仕事は多忙だった。舞台の大道具と小道具を片付け、次のし物に備えるだけではない。次の次に使う道具類を廊下に出し、使用済みのものは部屋の奥に仕舞う。


 旅館での公演も五日目となり、道具方の作業も慣れてきてはいたが、いつもの大天幕おおテントと違って、混乱することも少なくなかった。章一郎は指示を受け、今一度時計をあらためる。今の演目が終わるまで、あと数分といったところか。


 通常の業務とは別に、章一郎には密かな仕事があった。瑞穂みずほへの贈り物をギターラの収納箱に入れておこうと思い立ったのだ。あの日、工場と映画館のある街で手に取ったカメオのブローチ。勢いで買ったは良いが、渡す機会も勇気もなく、そのままになっていた。


 いつになたっら面会が可能になるか目処も立たず、また見舞いに行けたとしても大勢の前で渡す度胸などない。実際、今も周囲の目が気になって、楽器の木箱に手を掛けることすら出来ないでいる。道具方以外にも出演者がひっきりなしに出入りし、独りになれる瞬間はなかった。


「百貫女の話し、聞いたわよ」


 楽屋で出番を待つ小人楽団の珠代たまよは、面白がっていた。怒るでも呆れるでもなく、笑い話のひとつとして受け止めているようだった。公演が始まる前に耶絵子から聞いたのだろう。花街の真ん中で、一座の女同士が喧嘩したというのだ。軽い噂話では済まず、尾ひれがついて後々語り草になるに違いない。


「叩いたり、つかみ合ったりしたわけじゃないですよ。些細ささいな言い争いで、後腐れが残るようなものでもない」

 

 喧嘩は寸劇に等しかったが、章一郎は決して小さな出来事では済まないと捉えていた。問題は漫才夫婦の裏稼業だ。どのくらい儲けているのか皆目見当もつかないが、長老のたつみに尋ねたところ、人力車の運賃は安くはないという。一日に四度も乗って、それでお釣りがくる。骸骨男が言っていた通り、小遣い以上の実入りがあることは確実だ。


「その百貫女なら、ついさっき出掛けて行くのを見たぞ。衣装を着たまんまで、ちょいとそこらを散歩って雰囲気じゃなかったな」


 小人楽団の坂田が目撃していた。夫婦は自分たちの出番が終わるや、いそいそと出て行ったという。夜が本番だと語った骸骨男のにやけた顔が、章一郎のまぶたに浮かんだ。


 出演者が一堂に会する締めの挨拶に夫婦は加わらない。見栄えを考慮した配役ではなく、単純に百貫女の動きが鈍い為だ。また、当地で恒例になっている客の見送りにも参列せず、出番が終わればもう役割はない。


 それでも公演中に無断で場を離れるなど論外だ。太夫元に告げ口して表沙汰にしなければならない…章一郎は憤り、そんな思いに駆られたが、ここ何日も太夫元と会話を交わすことなく、まともに顔を合わせてもいない。告げ口こそ論外だった。


「公演に穴を開けることがあったら、大変だけど」


 章一郎は自分が返した言葉に驚いた。夫婦をかばい立てる気などないのに、弁護している。隠れて行う副業に腹を立てながら、心のどこかでは許している。実は憧れ、羨んでいるのかも知れない。そもそも凸凹夫婦が曲芸団を裏切ったと断言できるのか。磯の魚を売って密かに儲けていた自分が、一方的に非難できるものなのか…


 弁解するいとまもなく、また坂田と珠代は何の反応もなく、楽屋を出て舞台に向かった。最後の演目、耶絵子やえこが演じる水中縄抜けだ。重たい水槽の設置は最も厄介で、撤収も煩わしい。それが終わると道具類の整頓、客席の後片付けに追われる。閉幕直後こそ楽屋は火事場のようで、独りになる時間は到底なかった。


「章一郎、ちょっと話しがあるんだが、そうだな二人きりで」


 ようやく一段落した頃、楽屋裏に作造が現れた。普段と変わらない様子にも見えるが、目の挙動が怪しい。人払いが必要な話しとは、いったい何か。


 裏手の奥まった箇所にある旧館は、灯りもなくひっそりしていて、この日も宿泊客は居ないようだった。番頭によれば、桜の季節や夏の繁盛期はんじょうきには客を入れるが、老朽化が進み、建て直しの時期も近いという。亀裂の走る漆喰の壁は古めかしく、窓枠も傷んでいる。それでも側に咲く梅の花が彩りを添えて、風情があった。


「そいつが例のお殿様風呂か」


 竹垣の向こうに湯気が漂う。微かではあるが温もりが伝わって来る。章一郎は、この秘湯をたいそう気に入り、同室の座員を誘ったが、喜んだのは福助だけで、作造は大風呂に通った。そこでたしなむ晩酌の熱燗が魅力的で、毎夜欠かせないのだと言う。


 内緒話の要点は道すがら聞いた。やはり出稼ぎの件だった。百貫女と骸骨男の噂は瞬く間に広まっていた。章一郎は、作造が稼ぎに行くか否か迷い、その相談を受けるものと想像していたが、違った。大男が遠征に出掛けることは、既に決定済みだった。


「なあ、一緒に行こうぜ」


 章一郎を強く誘った。行き先は中心部にある新しいホテルで、宴席の余興に登場し、自慢の怪力を披露するという。出演の時刻は決まっていないが早ければ早いほうが良く、芸で用いる小道具も先方が整えてくれていると話す。準備は万端だ。


「面白ければ御捻おひねりが貰えて、小遣い以上の稼ぎが出来るって寸法さ」


 聞き覚えのある文句を言った。後ろで糸を引く輩の顔が鮮やかに浮上する。おもむく場所が見知らぬホテルとあって、大男は道案を頼んでいるのかと思ったが、それも見当違いだった。一緒に出演しようと章一郎を誘ってきたのだ。


「僕が行ったところで何にも出来やしないよ」


「歌だよ歌。得意の歌を聴かせりゃ良いんだ。後ろの笛も太鼓もないけど、酔っ払いを楽しませりゃ、それでおんの字さ」


 妙に具体的で、作造らしくない物言いだった。曲芸団の公演で披露するのは、どれも切ない哀歌で、宴席を沸かせるようなものではない。童謡や唱歌も得意だが子供向けで、旦那衆が喜ぶとは思えない。子守唄を歌ったら、酔っ払いは眠ってしまうだろう。章一郎は、宴席を想定してあれこれと考えを練る自分に気付き、また驚いた。


「流行り歌が良いだろうって。相手は年配の男どもなんで、いま帝都で流行っているような新しいもんじゃなくても構わないそうだ」


 流行歌も何曲か知っていた。雑音の酷いラヂオに齧り付いていた時期があって、そらで歌える曲も多い。身内で歌合戦をすることもあった。女性歌手の有名な音頭も音程を整えて上手く歌い、褒められたことを思い出す。そんな自慢話はともかく、流行歌を薦める作造の伝聞調が引っ掛かった。尋ねると、堂上の発案だと自白した。


「章一郎を誘えってしつこく言って来るんだよ。流行り歌を聴かせたところで、そんな御捻りが飛んで来るとも思えねえが、やっこさん、なんか自信たっぷりでな。まあ、曲乗りとか道具が必要なもんは都合が悪いし、歌なら空身からみで行くだけだ。面倒なことはねえ」


 堂上が直接言って来ないのは当然と言える。普段は目も合わさず、互いに避け合う間柄だ。作造を通して誘うことは無難なやり方だろう。


 前に野営した街で酒と料理を奢ってもらったのを機に、大男と手品師は急接近したようだった。章一郎は相変わらず堂上に不信感を抱いていたが、歌を評価されて悪い気はしなかった。検討の余地はある。けれども今直ぐに結論を出すのは難しい。


「ひと晩、考えさせてくれないか」


 作造は無理強むりじいせず、素直に了承した。独りで行くのは気が引ける、とも言った。不案内な街でホテルの場所を探し、見知らぬ舞台を踏むのだ。物怖じするのも仕方ない。堂々たる体躯たいくを誇りながら、作造は臆病なことろもあった。


 旅館の玄関先まで付き添い、出て行く背中を見送った。ほかに人影はない。多くの観客で賑わった大広間も嘘のように静まり返っている。大男の顔にちらついた不安の影は別の事柄にも関係しているのではないか、と章一郎は思った。


 内密の出稼ぎは曲芸団に対する裏切りで、当然、後ろめたさもある。自分が踏み切れない理由がそれだ。冒険ではなく、身勝手な背信行為にほかならず、糾弾されても仕方がない。百貫女のように居直る図太さも厚かましさもなく、耶絵子に説教されたらひざまずいて謝るのが関の山だ。ほかの座員はどう受け止めるか…珠代は笑い話で片付けていたが、例外的とも思える。ひと晩考えたところで答えが出るのか、それも分からない。


 気が付くと、楽屋の前に居た。明朝まで人の出入りはない。章一郎はハンカチに包んだブローチを取り出した。晩飯前にポケットに忍ばせてから、長い時間が経っていた。


 木箱を丁重に開け、ギターラを見詰める。鮮やかな色の舞台衣装で、この弦楽器を弾く瑞穂の姿が脳裡に蘇った。激しくも切ない音色が、遠鳴りのように今も耳に残る。最後の曲が終わった時、いつも彼女はこちらを向いて、微笑んでくれた。


 胴体の丸い穴にブローチを落とすと、微かに響く音がした。必ず直ると断言した甚之助じんのすけ親方の自信に溢れた表情を思い出す。蓋を閉じて紐を閉め、楽屋の一番奥に置いて、章一郎は祈った。

 

 その夜は様々な思いが交錯して、なかなか寝付けなかった。大男の所在を尋ねたのは柏原だけだったが、福助も坂田も出稼ぎの件を知っていた。毒づくでもなく、嫉妬するでもなく、どこか自分とは無縁の、他人事のよう受け止める素振りが、章一郎には少々解せなかった。


 部屋の窓に明るい月が浮かび、そして沈んだ。作造が帰って来たのは、明け方のことだった。

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