『黒いドレスの女は花街に乗り込む』

 目抜き通りを避けて、横道を辿った。街路は狭く、複雑に折れ曲がり、突き当たりもあった。小さな旅館や飲み屋が建ち並び、人通りも多かったが、狼男の風変わりな身なりを気に留める者はなかった。


「それはそれで、悪くない変装かも知れないわね」 


 前を歩く耶絵子やえこは、そう評した。釣り師の格好は抜群だったが、街中に出るのは不自然で、嘘を吐いて釣り竿を借りるのも気が引けた。そこで章一郎はに変装した。楽器を背負う姿も、なかなか様になっている。


 この変装は、柏原の発案だった。小人楽団のリーダーによると、横丁の飲み屋街にはという楽器使いがいて、店を巡り、客の希望に応じて弾き語りをするという。その中にはめしいの者もあって黒眼鏡を掛けている、と自分が見て来たように話した。どこまで信じてよいものか、疑わしくも思えたが、好都合だった。柏原は興行の呼び込みで使う派手な法被はっぴを章一郎に着させて「これで完璧だ」と太鼓判を押した。


「潮風に当てると良くないとも言ってたけど、剥き身で持ってきてよかったのかな」


 背負っている楽器は、大切な瑞穂みずほのギターラだ。今朝方、章一郎は街に楽器屋があるかどうか、耶絵子に尋ねた。見掛けたような、違う店だったようなという曖昧な返答だった。


 章一郎が急に楽器屋探しを始めたのは、昨晩の柏原との会話が切っ掛けとなった。楽器は奏者の分身だ、と彼は語った。寝しなに、浜辺での言葉が蘇り、いち早く弦楽器を直さなければならいと決心した。分身のギターラを修繕すれば瑞穂も快方に向かうと信じ、その思いに取り憑かれたのだ。


 街の楽器屋探しは楽屋の座員を巻き込んで拡大した。店について道具方が仲居に聞くと、番頭に話しが繋がり、最後には女将のところにまで行った。女将は、街の三味線直しに相談することを勧めた。名うての職人で、三味線やことのみならず、オルガンの修理やピアノの調律もこなすという。その場で修繕できなくとも、知恵を授けてくれるはずだ、と女将は歯切れよく語った。


「職人さんが居る見番けんばんってとこは、なんのお店なんでしょう」


「わたしもさっき聞いただけで、よく知らないけど、お店じゃなくて寄り合い場所みたいね」


 見番は料亭や貸座敷などが加入する組合の本部で、芸妓げいこの斡旋から送迎、玉代たまだいの勘定まで一手に引き受ける。裏と表から花街を支え、面倒事の処理も行なった。芸妓衆で賑わうこの温泉街にもあって、番頭が言うには最も繁華な場所に大きな館を構えているらしい。


「川沿いに行けば、迷うことないって言ってたわね。それに街の人なら誰でも知っているって」


「近くで芸者さんに尋ねれば、連れて行ってくれるだろうとも言ってましたね」


 路地裏を進むと川があった。小さな川で、海水が混じり混んでいるのか、濁って見えたが、川縁は石積みでよく整備され、その上に遊歩道が伸びている。風にそよぐ柳の枝、つぼみが春を待つ桜の並木。植え込みも手入れが行き届いていて、情趣に富む。散策気分で少し歩くと大きな館が見えた。


甚之助じんのすけ親方のことでしょうかねえ」


 見番の勝手口に居た年増は、そう言って二人を招き入れた。見番は観光客が立ち寄る場所ではく、関係のない者は追い払われると聞いていた。しかし、彩雲閣さいうんかくの名前を出すと、すんなり通してくれた。年増は章一郎の髭面を見て顔を一瞬硬らせたが、むしろ耶絵子のほうをいぶかしんでいる様子だった。この温泉街には美人が大勢居ても、洋風のドレスを着て化粧をしている若い女はほかに居なかった。


「親方なら奥で細工の最中かと存じます。ご案内しますので、付いていらして下さいませ」


 別の年増が出てきて、慇懃いんぎんに述べた。名うての楽器職人は階上の作業場に居るらしい。見番の中に入って、章一郎は意表を突かれた。組合や寄り合い所と聞いて、役場のような地味でいかめしい場所を想像していたが、鬢付びんつけ油の甘い香りが漂っている。これは女の匂いだ。


「すごく場違いなところに来ちゃった気がする」


 そう言いつつも耶絵子は胸を高鳴らせているようだった。確かに、秘密の場所を案内されている気分だ。匂いだけではない。どこからか三味線を弾く音が響き、小唄も聴こえて来る。親方と呼ばれる男は三階の部屋で、箏の調整をしていた。

 

「これはまた風変わりな客人だ」 


 親方も章一郎を見て驚かなかった。単に男に興味がないだけかも知れない。連れの耶絵子を卑猥な目付きで眺め回し、座布団を取り出して、座るよう促した。そして、もう隅から一枚手に取ると、狼男の前に置いた。


「あんた、ホンマもんのじゃねえな」


 見事に変装を見破ったと言わんばかりの、芝居がかった口調だった。狼男を睨むように見たが束の間で、視線は隣の美女に向けられ、とろけるような顔に戻る。単に女好きなだけかも知れない。全身を舐め回すように見られても、耶絵子は慣れたものなのか、平然としていた。


 取り急ぎ訪問の理由を伝え、相談の内容をかいつまんで話すと、親方は楽器を座布団の上に置くよう指示した。野郎のほうをぞんざいに扱ったのではなく、そこは初めから品をあらためる為の指定席だった。章一郎は背負ったギターラを慎重に外し、横たえた。


「うむ、なんとも珍しい」 


 もっと卑猥な目つきで、親方は弦楽器を眺めた。次いで、膨らんだボディの部分をゆっくりと撫で回す。いやらしい手付きで、今にも生唾を飲み込む音が聞こえて来そうだった。助平な親爺にしか見えず、章一郎は心許こころもとなく思った。


 だが、壊れている部分、柏原がペグと呼んだ糸巻きに手を掛け、金具をガタガタさせると、その目は突然、真剣味を帯びた。仕事熱心な職人の、抜かりのない眼差しである。


箏爪ことづめを嵌めて弾くのかな。ギターともマンドリンとも、だいぶ違う。の兄ちゃん、こいつは何処ぞの国のもんかね」


「西洋の葡萄牙ポルトガルという国の楽器だそうです」


 柏原から教えて貰った話しの受け売りで、章一郎は詳しく知らない。親方は入手した経緯など細々と尋ねたが、どれも分からなかった。そのうち、辛抱堪らずといった雰囲気で抱え持ち、試し弾きを始めた。久しく耳にしていないような懐かしく、切ない音色だった。親方は糸巻きの部分を締めたり弛めたりして音程を確かめる。細い弦の担当は何の異常もなかったが、太い弦はやはりダメだった。


「どうにか今ここで直せませんか」


 親方は残念そうに首を横に振った。見立てによると、金属の摩耗が激しく、一時しのぎで固定しても、何曲か弾くと弦が伸びて音程が狂うという。小人楽団の有識者も似たような説明をした。専門的な事柄は理解できないが、舞台に登る前に細かく調整する瑞穂の姿を章一郎は幾度も見ている。


「今ここでは無理だが、直るよ。日にちは掛かるが、元通りになるよ」


 親方の明言に、二人は驚いた。耶絵子は手を叩いて自分のことように喜ぶ。


「ちょいと離れてはいるが、県下に日本一の楽器会社があってな、昔の弟子がそこで働いてたりもするんだが、頼めば必ず元通りにしてくれる」


 親方が紹介した楽器会社は有名で、章一郎も聞き覚えがあった。三味線や箏といった和楽器ではなく、西洋から伝来した様々な新しい楽器を製造している。親方はピアノの調律で古くから付き合いがあり、弟子のほかに馴染みの工場長も居て、簡単に話しを通せると豪語した。工場長は風呂好きでもないのに、この温泉街に足繁く通い、月に二回来ることもあるという。


「奴に頼めば、この楽器を持って行ってな、工場こうばで仕上げてくれるさ」


 主に耶絵子を見詰めながら、親方は語った。部品を探す必要はない。現物があれば、金属だろうと湾曲した胴体の部分だろうと、そっくり同じものを作り上げる技術があるという。ピアノもヴァイオリンも舶来品を真似て、世界に通用する傑作を生み出したらしい。親方の語りには説得力があり、二人はいちいち感心して頷いた。


「こいつを預けてくれりゃ、向こうで直してくれるんだが、お嬢さんも兄ちゃんも旅芸人だよな。いつまで、ここにおるんかね」


 返答に困った。この温泉街にいつまで留まるのか、聞いていなかった。耶絵子は自分たちが旅芸人ではなく、曲芸団であることを説明したが、回答にはならない。定住先はなく、一週間か長くて十日間も経てば、次の巡業地に向かう。漂泊の旅芸人と変わらない。


「確かなことは分かりませんが、たぶん、数日もしたら出て行くと思います」


 親方は残念そうに唸り、章一郎は悔しくてうつむいた。またとない機会が目の前にあるのに、手放さざるを得ない。希望の光が見えたのに、たちまち霧散して、諦めるしかない。折角の話しだったが、辞退するよりほかなかった。


「詳しい予定を調べて参ります。それで、もう一度お伺いしても宜しいでしょうか」


 食い下がるように、耶絵子は申し出た。胸元や腰回りを舐め回すように見て親方は「その必要はない」と言う。明日の晩にも曲芸団の公演を観に行くと約束した。洒落たドレスを着た美女に強く惹かれたようだ。


 章一郎は直ぐにも退席しようとしたが、親方は弟子を呼び、茶菓子を持って来させてあつく持てなした。話し相手は九割方が耶絵子で、趣味や化粧の仕方など個人的な事柄を色々と聞いた。半ば無視されて章一郎は居心地を悪くしたが、帰り際に親方が掛けてくれた励ましの言葉は印象深かった。

   

「気を落としちゃいけねえ。なにも牛車ぎっしゃかれて粉々に砕けたわけでもないんだ。人にたとえたら、奥の歯が痛んだって程度のもんさ。修繕できない楽器なんてないんだよ」


 名残り惜しそうに、親方は背中のギターラを愛撫して言った。もちろん楽器の話しだ。だが、章一郎にはそれが瑞穂のことであるように思えた。

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