『美女と野獣の主役はどちらか?』

 夜の公演で舞台に立った章一郎は失態を演じた。四日目の公演だった。夕食の席での動揺を引き摺り、つまらない間違いを三度も犯した。歌い出しを誤り、音程を外し、歌詞も取り違えた。


 命運を握る重要な復帰舞台だった。事前に柏原は章一郎を激励し、クラリネット伴奏の練習を重ねた。仕上がりは順調で、予行は上手くいった。そして四日目のマチネが終わった後、柏原は深川に出演を申し出た。 


 一発返事で了承されることはなかったが、無理強いしたわけでもなかった。太夫元は淡々と柏原の提案を聞いたという。演出上の懸念が拭えなかったことは確かだ。


 狼男と小男の組み合わせは華やかさに欠け、大トリを飾るには相応しくない。どんなに歌が達者で、また情熱的であったとしても、舞台の中央で輝くのは親指姫だ。哀愁に満ちた弦楽器の音色、間奏で魅せる巧みな早弾き、そして妖艶な雰囲気。美女と野獣の主役は、おのずから決まっている。


 道具周りの都合で章一郎の登場は二番目となった。これがつまずきの一因だった。最初の演目は、終始冴えない堂上の奇術だ。準備運動に等しい余興の類いで、前座に過ぎず、観客の反応も鈍い。客席が冷え切ったところに出たのが良くなかった。


 いきなり現れた毛むくじゃらの男に観客は驚き、最初は歓声も悲鳴も上った。世にも稀な畸型が多数出演するという噂を聞き付けて来た客たちだ。狼男の異様な風貌は彼らの度肝を抜く。初めて目にする者が受ける衝撃は凄まじい。しかし、それだけたった。手品で冷め切った客席が熱を帯びることはなかった。


 ほろ酔いの旦那が何人か混ざっていたのも運が悪かった。これまで経験した覚えのない野次が飛ぶ。獣の仮面を付けていると勘違いしたのか、指を差して笑う客もいた。動揺が動揺を呼ぶ。章一郎が平常心を保つことは不可能だった。


「どうしたもんか…」


 柏原は頭を抱えていた。額に皺を寄せ、何か言い掛けては言葉を飲み込む。章一郎は終始無言で、出るのは大きな溜息と押し潰したような唸り声だけだった。


 波が磯に当たって砕ける音が、虚しく響く。居場所を失い、逃げるように夜の浜に来たのは間違いだった。愉快な釣りの時とは一転、辺りは寒々として、狼男の胸の内は一層冷え切ってしまった。


 公演の後、柏原は根気強く説得を続けた。夜通し練習して完璧に仕上げれば、つまらない失敗など起こり得ない。悩むよりもまず練習だ、と熱く訴えた。章一郎はひどく落胆して、大広間の隅で縮こまっていたが、根負けし、特訓を受け入れた。


 そして、いざ練習に出掛ける段になって、二人は愕然とした。道具方が持っていた紙切れを偶然、目にしたのだ。舞台道具の出し入れや照明の調整に関する覚え書で、明日の各種演し物も番号入りで順に記されているが、どこにも狼男の演目はない。名誉挽回の機会は貰えなかったのである。


「ほっとしたような気持ちも半分ある」


 真っ暗な浜辺を悄然しょうぜんと歩きながら、章一郎はぼそりと言った。例え特訓の成果が出て上手く行ったとしても、客席の雰囲気を変えるのは難しい。それに足が震えて、もっと大きな過ちを犯してしまうかも知れない…降板で少し安堵したというのは正直な思いでもあった。 

  

「でもなあ、どうしたもんか。ここで諦めたら、お前さん、これからどうするってんだ」


 次善の策も見当たらない。相方である瑞穂の復帰は遠く、金輪際組めない恐れもある。伴奏者を差し替えても上手くいくという保証はなく、客席を凍らせるだけで終わるかも知れない。実際、今夜の舞台がそうだった。


 今から曲芸を覚えても、物にするのは難しく、ひとかどの芸人にはなれない。少年の頃、章一郎はガラス玉を使ったお手玉や、細い三本の棒を操る芸に取り組んだことがあった。ジャグリングだ。一時期はサーカスでも流行ったが、展開に乏しく平凡で、観客が飽きるのも早い。また、深川は大怪我に繋がる危険な芸を好まず、瑞穂が加入して以来、章一郎は歌一筋だった。磨き込まれた芸は何物にも変え難い。


「クラリネットじゃなく、ギターを使うわけにいかないんですか」


「ギターラな。この間、箱から出して調べてみたんだが、やっぱり壊れかけていて、早く直したほうがいい。それに、あれはお姫さまのもんだ。勝手に弾いちゃいけない。長く連れ添った楽器ってのは、自分の分身みたいなもんなんだよ」 


 小人楽団は楽器を使い回しているが、リーダーの言葉は腑に落ちた。単なる道具ではない。奏者と楽器は一心同体だ。章一郎は、舞台で照明を浴びる親指姫と弦楽器が、ひとつになっているように見えることがあった。


「アコーディオンの伴奏で大衆歌を披露するって手もあるが、幕間まくあいの余興の域を出んな」


 独り言のように柏原は言った。責任感の強い楽団のリーダーは懸命に知恵を絞ってくれたが、万策が尽きた感は否めない。これから練習を積んでも、再び太夫元に掛け合ってくれることはないだろう。失敗したのは自分であって、クラリネットに罪はない。もっと真面目に練習すべきだったと章一郎は後悔もするが、最初から難儀な注文で、しくじらずとも喝采を浴びることはなかったように思えた。


 不運は巡り、災いが折り重なる。結局、助け舟を出してくれた恩人まで裏切ってしまった… 


 潮が満ちて来たのか、打ち寄せる波が足元を襲った。黒いさざなみだ。沖合はさらにくらく、吸い込まれるように感じられて薄気味が悪い。星のない夜の寂寞とした砂浜で、狼男は途方に暮れた。

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