『貴き恩寵 言はむかた無し甘美な響きぞ*』

 未明に外で物音がした。章一郎は三階の窓から慎重に辺りを窺ったが、暗がりの底で動くものの影はなかった。残雪も消え、恐らく福助は偵察を再開したはずだ。庭先を眺めていれば、忍者と化した一寸法師の姿が見られるのではないかと思い、夜更けや払暁ふつぎょうの頃に注意を払ったが、見出みいだすことは叶わなかった。


 たつみと作造を置いて、小さな二人が逃げ延びたとは考えられない。柏原は必ず固辞する。脱出は六人一緒だと真摯な眼差して語っていた。逆に、懲罰房に移された一名の安否を気遣っているかも知れない。彼は、そういう人間だ。


 章一郎が洋館に搬送された日、土蔵の大扉にあった太い鎖が外された。下男は素早く修復したのか。それとも未だ壊れたままで、握り飯の投下が行われているのか。屋根裏部屋には階段近くの壁に引き戸がある。床の間の持袋じぶくろに似た小さな扉だ。そこから食事が運び込まれ、用便の壺を出し入れする。住環境は土蔵よりも良く、懲罰房とは名ばかりだった。暗い穴蔵の五人には心配無用だと伝えたい。


 引き戸を少し開け、出窓を限界まで開放すると風が良く通った。長雨を境にすっかり春めいて、午後の陽溜まりは爽やかだった。坐禅を組んで背筋をぴんと伸ばし、また章一郎は歌い始める。別に狙ったつもりではないが、昨日階下の娘が話し掛けて来た時間帯だ。


 吟詠ぎんえいで喉を整え、唱歌で潤す。以前は日課にしていた準備作業だった。大衆歌を蔑むわけではないが、普通の人々の普通の暮らしが歌詞に盛り込まれていて、章一郎は好きになれなかった。浮世離れした、日常を忘れさせてくれる外国の曲のほうが耳にも心にも優しい。歌詞が理解できず、意味が分からないところが良いのだ。そんな曲を声高らかに歌った時、残響のような音が聴こえて来た。歌声だ。


  ホエン ウィーブ ビーン ヒア テン タウザン イアーズ

  ブライト シャイニング アズ ザ サン


 亞米利加アメリカで親しまれる『アメイジング・グレイス』という曲。いつか舞台で披露しようと外国語の歌詞を丸暗記し、練習を重ねていた歌でもある。それを今、階下の娘が一緒に歌っている。テノールとの男女混成合唱。美しいソプラノだ。さしもの章一郎がうっとりするような澄んだ声だった。三階の狼男が歌い終えると、娘は冒頭の部分を復唱した。

 

  アメイジング グレイス ハウ スウィート ザ サウンド

  ザット セーブド ア レェチュ ライク ミー


 心からの拍手を捧げる。聞き惚れるとは、正にこんな状態を指すものだと章一郎は初めて知った。


「ありがと」


 昨日の少女だった。歌劇団を侮っていた自分を恥じる。井の中のかわずだ。少女たちの愉快なお芝居程度に考えていたことを申し訳なく思う。彼女の歌声こそ絶品と讃えるに相応しい。


「なんて言ったらいいのか…昨日、僕の歌を褒めてくれたけど、それを十倍くらいにして褒めたい。歌劇団って、凄いんだなあ。知らなくて、ごめん。僕こそ、あの街で舞台を見に行けば良かった」


「うーん、舞台ではやってないかな。わたしが好きな歌って言うか、懐かしい感じもする歌」


 その曲は小人楽団のリーダーが推薦したものだった。亞米利加では有名な曲らしいが、本邦で知る者は少ないはずで、ラヂオで流れているのを聴いた覚えもない。歌詞を丸暗記するのも厄介な曲だ。詮索する意図はなかったが、気になったところを尋ねると、意外な答えが返ってきた。


「歌劇団とは関係がなくって、昔、何年か前に、わたし孤児院に居たんだけど、その時に習ったと言うか、みんなで歌ってた。これって讃美歌なんだよね」

 

 やはり尋ねるべきではなかった、と章一郎は悔やむ。孤児院とは両方の親も身寄りもない幼な子が預けられる場所だと聞く。福助や珠代たまよがそうだった。二人とも往時の思い出話しを語らず、また詳しく聞く者も居なかった。少女は讃美歌というものについて手短に教えてくれたが、章一郎は漠然としか理解出来ない。


「教会で歌ったりもして、いやそれが本当なんだけど、祝福のひとつみたいな、ご加護がありますようにって」

  

 縁日の際に神社の境内で見掛ける神楽のようなものらしいが、厳かな奉納の儀式とは違って、大勢で合唱するという。章一郎が何個か質問すると、少女は別の讃美歌を歌ってくれた。『シュティレ・ナハト*』という題名で、これも物悲しい雰囲気を醸し出す静かな歌だった。印象的な旋律にも増して、彼女のソプラノは美しく、何処か神々しくも感じられた。


「わたしも一緒に歌える曲は何かないかなあ」


 要望を受け、章一郎は有名であろう大衆歌の題名を挙げてみたが、いずれも知らないと言う。童謡や唱歌はどうだろかと方向を変えて、一番好きな『埴生はにゅうの宿』を歌ってみた。驚くことに彼女は、その外国語版を知っていると言って、歌ってくれた。


 歌詞の内容に関しては無頓着で解らないようだが、まったく同じ曲だった。階下の少女は年齢とは不相応に、外国の歌が好みらしい。しかし生憎あいにくながら、章一郎の手持ちは数に限りがあった。


「西洋の民謡なんだけど、こんなのはどうかな」


 歌い出してから気が付いた。不確かだが温泉街の海浜公園で、この『サンタ・ルチア』を歌った覚えがある。あの時、初対面の副島は小難しいことを言って褒め千切った。転落の端緒、今ここに自分が居る元兇げんきょうだ。


「ねえ、歌のお兄さん、窓から顔を見せてくれないかな。わたしも顔を見せるから」


 恒例の拍手もなく、声の調子も変わった。最悪なことを言う。毛むくじゃらの顔を見せたら、女の子は悲鳴を上げるに違いない。二度と一緒に歌ってくれることもない。夢のような時間は、一瞬でお終いだ。それに、窓から顔を出すことは物理的も不可能だった。


「窓は少ししか開かないんだ。ごめん」


「じゃあ、腕を見せて、お願い」


 しつこかった。食い下がるような物言いは、これまでの朗らかな態度とは大きく違い、声もまた真剣味を帯びている。左手の怪我のことを知っているのか、と章一郎は訝った。


 手の甲には火傷跡があって、切り傷の周囲には包帯が巻かれている。それでも手首は剥き出しで、異様な体毛は誰の目にも明らかだ。出来るなら隠し通したい。だが、頑なに断るのも不自然だ。章一郎は包帯が目立つように肘を曲げ、出窓の隙間から恐る恐る左手を差し出した。


 直様すぐさま、階下の少女は言った。


「わたしはあなたを知ってる。それで、あなたもわたしのことを知ってる」


 傾いた太陽に照らされて、左手はどう見えたのだろうか。叫ぶことも言葉を失うこともなく、少女は努めて冷静な様子だった。そして章一郎は、はっきりと思い出した。海沿いの公園には二人居た。副島とあの美少女だ。



<注釈>

*シュティレ・ナハト=邦題『きよしこの夜』 昭和三十年代半ばに小学校の音楽教科書に採用され、本邦で普及した。


*たつと恩寵おんちやう はむかた無し甘美くわむびひゞききぞ=『アメイジング・グレイス』冒頭の一節を昭和初期風に作者が頑張って訳したもの。

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