『いい歌声だね、と彼女は言った』

 独りになってから二晩が過ぎた。


 懲罰房と何だったのか、新たに閉じ込められた部屋を眺めて、章一郎は不思議に思う。電燈は壊れたままで交換もしてくれないが、昼も仄暗ほのぐらい土蔵と違って明るく、風通しも悪くない。館はモダンな造りで、洋館と呼ぶに相応しかった。


 部屋は洋館の三階にあった。恐らく、別当べっとう青年が表の通りから見たのは、ここのことだ。天井も低く、屋根裏部屋と表現するのが適切だった。納戸や物置ではなく、洒落た白い木枠の出窓が設けられている。その窓から海が望めた。


 眼下に目印になるような構造物はなく、場所はまったく判らない。それでも海沿いにある大きな家々から、鄙びた漁村とは異なる印象を受けた。朝も夕方も、行き交う漁船は一度たりとも見掛けていない。


「旅館にあった展望室みたいだ」


 何回となく赴いた彩雲閣さいうんかくの望楼を思い出す。旅館二階の更に上に特別に設置された小さな部屋だった。案内の地図には、遥かに島が望めると記されていたが、何時も霞んでいて、島影らしきものを一度見たきりだった。

 

 海を眺めていると、旅館で堪能した殿様湯とのさまゆが懐かしく感じられた。風呂に浸かったのは何日前だろうか、と章一郎は来し方を顧みる。もし効能書きの通りなら、手の傷も早く癒えるのだろうか。


 火傷は深刻ではなかった。引火して毛は燃え、縮れたが、皮膚は大きな被害をこうむっていなかった。手を覆う深い毛が身を挺して守ってくれたのだ。皮肉なものである。一部禿になった箇所も永遠ではなく、じきに毛が生えて来るに違いない。ただし、体毛の再生は狼男にとって手放しで喜ぶ事柄ではなく、その思いはやや複雑だ。


 切り傷は思ったより深く、長さもあった。手当をしたのは堂上どうがみだった。章一郎は勝手口から館に連れ込まれ、番人の自室で軟膏を塗り付けられた。瀟酒しょうしゃな洋館の外観とは掛け離れた薄暗い小部屋で、床も壁も汚れ、下男という呼び方が妥当に思えた。手当てを受ける間、繰り返し嫌味を言ったが、手品師は何も口答えしなかった。


 下男の汚らしい住処すみかに比べ、三階の屋根裏部屋は清潔で、監獄の中にある最悪の監獄などではなかった。もっとも、当然のように出口は封じられている。二階奥にある細い急階段。それが部屋の端に通じる構造だが、開閉式の扉が付いていて、しっかり施錠されていた。


 閉じ込められた直後から、章一郎は脱出策を練った。出窓は小さく、しかも僅かにしか開閉できないような仕掛けになっている。子供の転落防止用なのか、単なるなのか、見たことのない二つ折りの金具が邪魔立てして全開に出来ない。窓から顔を突き出すことさえ無理だった。


 金具の螺子ネジを取り外すか、或いは窓そのものを破壊すれば、出ることは可能だ。しかし、三階からの飛び降りは自殺行為に等しい。もし、雪が深く積もったままなら、大怪我覚悟で挑んだかも知れない。だだ、あの一面銀世界の朝から四日が経ち、庭の雪はあらかた溶け、木陰の一部に名残りを留めているに過ぎない。


 六人が知恵を出し合った脱獄作戦の謀議は、実現するか否かは別に、気を紛らす大きな効果があった。独りになると考え事ばかりして憂鬱になる。いずれもが悲観的で、自嘲的で、何処にも救いがない。


 病床の瑞穂のことを想うと胸が張り裂けそうになり、憎たらしい野郎どもの姿を脳裡に浮かべると血が逆流する。不吉なことを考えては、そんな思いを巡らす自分に憤り、また絶望する。「謝罪も反省もするな前を向け」という柏原の忠告は決定的に正しかった。



 翌日は明け方から雨が降りしきる生暖かい日だった。僅かに残る雪も全て溶けた。土蔵の挑戦者たちにとっては恵みの雨かも知れない。足跡を気にすることなく、福助が自由に探索できる。屋根裏部屋の窓から一寸法師が、ひょっこり顔を出す…そんな妄想も膨らむ。ロープも不必要だ。竹竿が一竿あれば、軽業師は大天幕おおテントにてっぺんにも登れた。二階程度の高さなら、お手のものだ。果たして、この三階はどうか。


 雨音が拍子のようにも聴こえて、章一郎は思わず鼻歌を奏でた。悪くない。ひとつふたつ咳をして小声で歌う。悪くない。徐々に声量を上げて、本格的に歌ってみた。久し振りの感覚に身体が震える。


 演目で朗唱する哀歌、宴席で披露した大衆歌、半ば忘れかけている唱歌。様々な種類の歌を気が向くまま、脈絡なく歌った。洋館に居る者には聴こえまい。強い雨音が掻き消してくれる。出窓を開け、喉を鳴らす。心地良い。坐禅を組み、居住いずまいを正して朗々と歌う。小気味良い。鬱憤が晴れるようだ。


「いい歌。ほんといい歌声だね」


 声がした。窓の外からだ。隣の部屋から聞こえる程の近さだったが、声の主は階下に居るようである。幼い感じもする女性の声。いつしか雨は止んでいて、晴れ間も覗いていた。歌声は館中に響き渡っていたかも知れない。


「ごめん、うるさくして」


「そんなことないよ。最初、ラヂオから聞こえて来るのかと思ったんだよ。そしたら、咳払いもするし、一回くしゃみもした。それで良く聞いたら全部同じ声で、ほんとびっくりした」


 少女の声だ。出窓に近付くと、声は二階の斜め下辺りから届いているようだった。窓辺に居るのではなく、窓から顔を突き出して喋ってる感じの大きさだ。ここが少女歌劇団の根城であることは間違いないが、これまで娘たちの話し声が聞こえた試しはなかった。


「その、下に…二階に女の子が大勢居るのかな。いや、なんか恥ずかしくて」


「うーん、ちょっとかな。わたしのほかに三人居るだけで、今はみんな一階の食堂とかで、何かしてるはず」


 きびきびとして、明るい印象の声だった。無理に敬語を使わない、適当な受け答えにも幼さが滲み出ている。年の頃は、春子よりずっと下だろうか。章一郎は、温泉街の演芸場で出会った数人の娘たちの姿を頭に思い描いた。


「君も歌劇団の座員なのかな」


って、何のこと」


「ああ、団員だったな」


「そうだよ。ここに居る子はみんな歌劇団の、何て言ったっけ、そうそう、歌手で踊り子」


 副島そえじまについて聞きたかったが、自重した。恨み節を投げ付ける相手ではない。間違いなく、拉致監禁の首謀者は裏の顔だ。歌劇団の子供たちは土蔵に畸型の者たちが閉じ込められていることなど露も知らず、想像も出来ないだろう。邪悪な手品師についても同様だ。


「君たち、学校には行ってないの」


「わたしは行ってないよ。女学校に通っている子も居るけど、うーん、少ないかな」


 詮索するようで野暮に思えた。高等女学校に通っているのなら、十代前半から半ばだが、それを知ったところで、何があるわけでもない。章一郎が会話に詰まると、階下の娘が、もう一度歌ってくれと頼んできた。白菊の、何とか…得意とする唱歌のひとつ『庭の千草』だ。


  あゝ 白菊 あゝ 白菊

  ひとり遅れて 咲きにけり


 大きな拍手が聞こえた。章一郎は調子に乗って、もう一曲歌ったが、娘は用事でも出来たのか反応はなく、その後、声が掛かることもなかった。

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