『いい歌声だね、と彼女は言った』
独りになってから二晩が過ぎた。
懲罰房と何だったのか、新たに閉じ込められた部屋を眺めて、章一郎は不思議に思う。電燈は壊れたままで交換もしてくれないが、昼も
部屋は洋館の三階にあった。恐らく、
眼下に目印になるような構造物はなく、場所はまったく判らない。それでも海沿いにある大きな家々から、鄙びた漁村とは異なる印象を受けた。朝も夕方も、行き交う漁船は一度たりとも見掛けていない。
「旅館にあった展望室みたいだ」
何回となく赴いた
海を眺めていると、旅館で堪能した
火傷は深刻ではなかった。引火して毛は燃え、縮れたが、皮膚は大きな被害を
切り傷は思ったより深く、長さもあった。手当をしたのは
下男の汚らしい
閉じ込められた直後から、章一郎は脱出策を練った。出窓は小さく、しかも僅かにしか開閉できないような仕掛けになっている。子供の転落防止用なのか、単なる煽り止めなのか、見たことのない二つ折りの金具が邪魔立てして全開に出来ない。窓から顔を突き出すことさえ無理だった。
金具の
六人が知恵を出し合った脱獄作戦の謀議は、実現するか否かは別に、気を紛らす大きな効果があった。独りになると考え事ばかりして憂鬱になる。いずれもが悲観的で、自嘲的で、何処にも救いがない。
病床の瑞穂のことを想うと胸が張り裂けそうになり、憎たらしい野郎どもの姿を脳裡に浮かべると血が逆流する。不吉なことを考えては、そんな思いを巡らす自分に憤り、また絶望する。「謝罪も反省もするな前を向け」という柏原の忠告は決定的に正しかった。
翌日は明け方から雨が降り
雨音が拍子のようにも聴こえて、章一郎は思わず鼻歌を奏でた。悪くない。ひとつふたつ咳をして小声で歌う。悪くない。徐々に声量を上げて、本格的に歌ってみた。久し振りの感覚に身体が震える。
演目で朗唱する哀歌、宴席で披露した大衆歌、半ば忘れかけている唱歌。様々な種類の歌を気が向くまま、脈絡なく歌った。洋館に居る者には聴こえまい。強い雨音が掻き消してくれる。出窓を開け、喉を鳴らす。心地良い。坐禅を組み、
「いい歌。ほんといい歌声だね」
声がした。窓の外からだ。隣の部屋から聞こえる程の近さだったが、声の主は階下に居るようである。幼い感じもする女性の声。いつしか雨は止んでいて、晴れ間も覗いていた。歌声は館中に響き渡っていたかも知れない。
「ごめん、うるさくして」
「そんなことないよ。最初、ラヂオから聞こえて来るのかと思ったんだよ。そしたら、咳払いもするし、一回くしゃみもした。それで良く聞いたら全部同じ声で、ほんとびっくりした」
少女の声だ。出窓に近付くと、声は二階の斜め下辺りから届いているようだった。窓辺に居るのではなく、窓から顔を突き出して喋ってる感じの大きさだ。ここが少女歌劇団の根城であることは間違いないが、これまで娘たちの話し声が聞こえた試しはなかった。
「その、下に…二階に女の子が大勢居るのかな。いや、なんか恥ずかしくて」
「うーん、ちょっとかな。わたしのほかに三人居るだけで、今はみんな一階の食堂とかで、何かしてるはず」
きびきびとして、明るい印象の声だった。無理に敬語を使わない、適当な受け答えにも幼さが滲み出ている。年の頃は、春子よりずっと下だろうか。章一郎は、温泉街の演芸場で出会った数人の娘たちの姿を頭に思い描いた。
「君も歌劇団の座員なのかな」
「ざいんって、何のこと」
「ああ、団員だったな」
「そうだよ。ここに居る子はみんな歌劇団の、何て言ったっけ、そうそう、歌手で踊り子」
「君たち、学校には行ってないの」
「わたしは行ってないよ。女学校に通っている子も居るけど、うーん、少ないかな」
詮索するようで野暮に思えた。高等女学校に通っているのなら、十代前半から半ばだが、それを知ったところで、何があるわけでもない。章一郎が会話に詰まると、階下の娘が、もう一度歌ってくれと頼んできた。白菊の、何とか…得意とする唱歌のひとつ『庭の千草』だ。
あゝ 白菊 あゝ 白菊
ひとり遅れて 咲きにけり
大きな拍手が聞こえた。章一郎は調子に乗って、もう一曲歌ったが、娘は用事でも出来たのか反応はなく、その後、声が掛かることもなかった。
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