『狼男は名を告げて二つの夜を知る』

「大怪我をしたって聞いたの。いやだ、血が滲んでる。新しい包帯に替えなくちゃ」


 微かな血痕が見えたのなら、肘や手首の深い毛も見えたに違いにない。もう隠す必要はなくなった。階下の少女は自分のことを知っていると明言したのだ。演芸場で出会った複数の娘の誰かではない。あの海辺の公園で、外国の民謡を耳にした少女はたった独りしか居ない。


「そう、僕も君を知っている。髪の毛は短めで癖がある。亜麻色と言うか、真っ黒と少し違う感じ」


「良く覚えてくれてて、うーん、なんか嬉しいような恥ずかしいような。ありがと」


 当たりだった。福助が聞いたら、さぞ羨ましがることだろう。根に持たれるかも知れない。目鼻立ちの整った、外国の人形のような可憐な少女だ。一寸法師に言い訳をするなら、対面したわけではない。電話で話すのと一緒だ。しかし、それが思わぬ効果をもたらした。秀でた容姿とは別に、美しいソプラノが鮮烈な印象を章一郎に与えたのだ。


「演芸場で会ったあの子には申し訳ないことをしたなあ。あげても良かったんだけど、売り物なんだって。けちな話しだよね」


 福助が購入した顔写真のことである。代金を立て替えた耶絵子が、その後ずっと文句を言っていたのを章一郎は思い出す。さんざ冷やかされて、福助は腹巻きの中に隠した。きっと今も大切に仕舞っているに違いない。 


「それより、早く包帯を新しくしなきゃ。どうすればいいんだろう」


「だいぶ治りかけてるみたいだ。膿んでるようでもないし、大丈夫だよ、たぶん」


 優しそうな子だった。夜の駐車場やホテル前で見掛けた冷めた表情からは想像が付かない。やはり親分が居る時と居ない時では振る舞い方に違いが出るのだろう。ごく普通の少女というより、むしろ取っ付き易い性格にも思えた。


「あのう、僕は章一郎って言うんだ。君の名前は…」


「わたしは白夜びゃくや。白い夜って書くんだよ」


 舞台で使う名称なのか。たつみによれば、芸妓げいこも舞妓も本名を用いることはないという。変わった名前だが、雪肌が眩しい彼女に相応しいようにも思え、章一郎は納得してその名を二度三度と反復した。


 温泉街で何度も会った美少女。その姿を思い起こすと、隣に黒い人影が浮かび上がる。彼女は副島そえじまの秘書役にも見える人物だ。福助が強く弁護する通り、年端も行かない歌劇団の子が、拉致監禁という大逸れた犯罪に関係しているはずがない。それでも、何か知り得ている事柄があるのではないか。


「遊戯施設の撞球場どうきゅうじょうで、作造、でかい男を用心棒にするって副島が言ってたけど、あれってこの館の番人にしたいってことだったのかな」


。何のことかな。用心棒って…」


「球撞き遊びをした。お酒とかも出してて、施設の二階にあった」


 話しが噛み合わない。章一郎は黒塗りの車に乗った件や海沿いの公園で歌劇団の名称について読み方を教えてくれた時の模様を詳細に伝えたが、どれも分からないと返答する。とぼけているのではなく、実際に知らないようだ。


「たぶん、わたしの妹と勘違いしてるのだと思う。仕方ないさ、双子なんだし」


 双子と聞いて仰天したが、章一郎は一瞬で理解した。副島に寄り添っていた美少女は、まったくの別人、瓜二つの実の妹だったのだ。しかも歌劇団の役作りの為に髪型も揃えていて、見分けが付くのは当人くらいだという。


「妹は極夜きょくやって言うんだ。南極や北極の極に夜。よく性格は違うって言われるけど、仲好しだよ」


 これまた風変わりな名前だ。副島と一緒に何度も会った少女は妹で、姉の白夜とは一回だけ対面したきりだという。耶絵子に連行された演芸場。そこで応対したのが、いま言葉を交わしている階下の彼女だった。夜と昼で雰囲気が異なっていた理由も分かった。    


「姉妹だからね。今日何があったとか、あれが面白かった、珍しかったとか、お話しするんだ」


 双子の妹は、異国の民謡を歌う芸人について話したことがあったという。海浜公園の狼男である。深い毛で覆われた特異な外見も話題に上ったのか否か、章一郎は気を揉んだが、白夜は触れなかった。少し高い声で朗々と歌い上げるサーカスの芸人。妹は外国語なのにそらで歌っていたことに驚き、姉に詳しく語った。そして先程、『サンタ・ルチア』を聴いて、妹から伝え聞いた話しを思い出したのだという。


「双子の姉妹だからね。他人に言えないような話しも色々する」


 思わせぶりな物言いだった。章一郎は慎重に言葉を選び、声を潜めて、探りを入れた。副島の犯罪行為に絡む危うい案件だ。何も知らなければ、それで良い。無関係の子供を巻き込むわけにはいかない。


「だいたいのことは妹から聞いてる」


 小声になった。白夜は、支配人が良からぬ仕事に手を染め、離れの蔵に見知らぬ誰かが閉じ込められていることも知っていた。何人かは前の巡業先から連れて来られた。最近、喧嘩騒ぎが起きて怪我人が出た。いずれも妹が教えてくれたという。

 

 歌劇団のほかの子は、身体の悪い人たちが離れで静養しているとの創り話を吹き込まれ、恐ろしい実態に気付かない。しかし妹の極夜は、彼らが悪い病気持ちではないと知っている…


 所々、聞き取れない言葉もあったが、白夜は最後に力強く言った。


「章一郎さん、わたしたち二人はどうにかしたいと、あなたたちを何とか救けられないかって考えてる」

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