『隠された五徳ナイフの夜』
窓の汚れた部分に「正」の字が完成した。日数を把握する為、屋根裏部屋に幽閉された晩から章一郎が書き記しているものだ。計算が正しければ、土蔵の日々と合わせ、既に十日以上も監禁が続く。
「見世物小屋に送られるにしちゃ、少々不自然だ」
かつて柏原が言っていたことを思い起こす。見世物小屋に売るとしたら、副島は
昼前、部屋奥の階段を覆う蓋が鳴った。誰かが押し開けようとしてるのか。次いで、錠前をいじる音が聞こえる。
「だめだ。びくともしない」
「小さな南京錠なんだけど、わたしの力じゃ、無理だよね。鍵は見当たらなかった」
白夜は昨夜、下働きの男の部屋に侵入して鍵を探したと明かした。下働きの男とは、土蔵の者たちが下男もしくは番人と呼ぶ大柄で知恵の遅れた者のことである。そんな輩と鉢合う危険を顧みず、彼女は鍵の入手に取り組んでくれたのだ。救けたいと語ったその言葉は本物だった。だが、棚にも引き出しの中にもなかった。ここの合鍵も玄関の鍵と一緒に、下男が腰に下げているに違いないと言う。
「そんな無茶までしてくれて、有り難う。土蔵の鍵も同じなのかな。それと土蔵の扉にはぶっとい鎖が掛かっていて、壊すのに道具が必要なんだ」
誓い合ったわけではないが、脱出は六人揃ってだ。例え自分だけが屋根裏部屋から抜け出せたとしても、土蔵を開放する作業は難しい。下男、あの番人と格闘して鍵を奪い、斧か大槌で叩き壊さなければならない。章一郎に乱闘で優勢を勝ち取る自信はなかった。騒ぎとなれば、
「ふーん、あの男、堂上って言うんだ。妹から聞いたんだけど、支配人に叱られたみたいだよ。章一郎兄さん、あなたの大怪我のことで」
それよりも、妹の
章一郎は当日の出来事を思い返す。懲罰房に連行すると言って再び現れた時、手品師は怯えたような、
「あんまり時間がないかも知れない。章一郎兄さん、怪我しているほうの手を出して」
部屋の奥にある引き戸を静かに開けて、白夜が顔を出した。本当に異国のお人形さんのようだ。姉妹の違いはまったく分からないが、演芸場で会ったのが、この子だった。福助が白雪姫と呼ぶのも、決して大袈裟な形容ではない。童話とは逆に、白雪姫が小人たちを救けようとしている。
「大きな
腕を覆い尽くす体毛については、何も語らない。演芸場には完璧な変装で行った記憶がある。帽子に黒眼鏡。軍手は着けていただろうか。何度も会った妹は素顔を知っている。敢えて口にはしないが、きっと姉妹はそうした情報も共有しているに違いない。
白夜は軟膏を塗りたくり、下手なりにも丁寧に新しい包帯を巻いてくれた。血の染み付いた古いものは見付からないように捨てるという。これも発覚したら不味い危険な作業だ。
「また隙を盗んで来るから」
そう言い残して、白夜は去った。午後の間中、窓の下や引き戸の向こうに彼女が現れるのを待ったが、音沙汰はなく、翌日も同様だった。密会がばれたのか、単純に人目を嫌っただけなのか。章一郎は焦燥感に駆られた。耳を澄ましても、階下から響く物音はない。洋館は誰も居なくなったかのように静まり返っていた。
再訪を待ち侘びている間に、
深川曲芸団は帝都へ行って、その後、どうなったのか。歌劇団との共演は有り得ない。すべて出鱈目だ。みんなが大広間で回し見した白黒の宣伝チラシ。あれを目にした時、嘘に気付くべきだったと章一郎は悔やむ。福助の宝物になった派手な色遣いのチラシとは大差があった。騙す為に
「何だ、これは」
晩に配達された食事に異物が混入していた。それは冷めた汁の底にあった。汁塗れの異物を取り出し、服の袖で拭く。軍隊で使われる五徳ナイフだった。鉄製で、小さい割に重い。
渦巻きのコルク抜きに瓶の栓抜き。
これを汁物の底に沈めたのは、恐らく白夜だ。確証はないが、確信は持てる。そして、最も重要な役割を担う部品は、刃物だろう。道具ではなく、兇器になる。自らの非力さを補うには充分だ。番人との格闘で、戦いを有利に運べる。しかし、あの優しそうな白夜が、刃傷沙汰を想定して兇器をこっそり渡してくれたとも思えない。
階段を塞ぐ蓋はどうか。章一郎は試しに五徳ナイフで蓋の縁を削ってみた。胴体に錆が浮いているのに切れ味は鋭かった。少し力を込めれば、木製の蓋は削れる。錠前がある辺りを削ぎ、全体重を掛けて蹴り付ければ、壊れるはずだ。
どのくらいの時間、幾日を要するか判らないが、やれることはやってみよう…そう決意して狼男はナイフを突き立てた。
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