『一陣の風 扇ぎたり…吾、誓ひて信ず生魂』
生まれて初めて、章一郎は自分の名前を書き記した。苗字を含めて五文字とやや長い。受付で「深川さんですね」と言われ、一瞬、太夫元が近くに居るのかと思って振り返りそうになった。
サナトリウムと称される療養施設は、内も外も白く輝き、清潔感に溢れていた。女将が言った通り、陰気な病棟ではなく、大きな街で見掛けた私立の学校のようだった。白衣の職員からマスクを付けるよう指示され、病室番号の記された紙を渡された。別棟の二階にあるらしい。
手入れの行き届いた中庭を過ぎ、奥の建物に近付くと、音楽が聴こえて来た。辺りは静かで、
忘れるわけがない。聞き違えるはずもない。ギターラの音色だ。病室の番号を検める必要はなかった。調べに誘われて早足で辿り着くと、部屋の扉は開いていて、そこに
音が止んだ。
「ああ、え、章一郎さん。ええ、どうして…」
口を開けて、驚く。その顔を見て、涙が溢れた。泣くまいと決意していたのに、決壊して、止まらなかった。水中を漂っているかのように、
「深川さんが見舞いにいらっしゃるって伺ってたのだけど、あなたが来るなんて、章一郎さん」
嗚咽して、胸が高鳴って苦しくて、どう言葉を紡げば良いのか分からない。今しがた聴いた演奏が耳の奥で渦巻いて、感覚がとち狂って、宙に浮かんでいるかのようだ。
「元気そうで、良かった。本当に良かった」
紋切り型の味気ない文句だと分かっていても、ほかに見当たらない。頭が莫迦になってしまったみたいだ。けれども、それで良い。感情の整理なんて、後で幾らでも出来る。
瑞穂は入り口近くにある椅子に座るよう促した。消えたりしないから、大丈夫だから、座って落ち着いて、と優しく言う。ベッドの上の病人に
「遠いところ来てくれて、有り難う」
瑞穂も目を潤ませている。その小さな瞳を見て、また泣けてくる。涙の堂々巡りだ。それでも、咽び泣く狼男と違って、彼女は嬉しそうで、口元に笑みを湛えている。そして、ここまで自転車で来たと話すと、また大仰に驚いた。
サナトリウムは高原にあって、終盤は登り坂の連続だった。足は棒になり、
最後の最後に運転を過って派手に転んだが、幸い鎖は外れず、怪我もしなかった。そんな珍道中を語ると、瑞穂は愉快そうに笑った。口を隠そうとして手を持ち上げた時、指先が弦に掛かって、不意に低い音が鳴った。
「そのギターラ、前と同じ物だよね。直った…どうして、ここに」
「一昨日、こちらに届いたの。大きな荷物で、何かと思ったら、開けてみてびっくり。手紙が添えてあって、この
親方だ。見番の三階に控える少し助平だけど、切符の良い甚之助親方だ。黒いドレスの美女と一緒に押し掛けた際、馴染みの楽器屋に頼めば直せると親方は豪語していた。手紙によると、一流の楽器会社は珍しい弦楽器だと歓迎し、忽ち直した。更に型をとって図面を引き、同じ品の量産を計るという。
「貴重な楽器らしくて、役に立ったそうよ。同じのを幾つか造って、交響楽団とか専門の人に高く売るんですって。不思議なことがあるものね」
荷物は二個届いて、別の箱には模倣した物が入っていたと明かす。予備として使えるようにとの心配りで、謝礼の意味もあった。そして、耶絵子が早い時期に親方に壊れたギターラを引き渡したことも判った。章一郎は自分を情けなく思う。お座敷で荒稼ぎし、曲芸団から抜けることを思案していた頃、耶絵子は楽器を直すべく奮闘していたのだ。頭が下がる。逸早く動いて、その努力はここに実った。
「楽器が直れば、悪い病気も必ず治るって、面白いことを耶絵子は言ってたわ」
すっかり忘れていた。流しに変装して見番を訪れた当時、大切な楽器と持ち主が同じ運命を辿るといった奇妙な考えに取り憑かれていた。そして今、ギターラは見事復活を遂げた。瑞穂も必ずや快復するに違いない。
「うるさいって注意されるかと思ったけど、なかなか好評みたいで、昼のうちは、こうして弾いてるの」
そう言って、一番好きな曲を演奏してみせた。懐かしい音色だ。太い弦を使う和音もしっかり出ている。修繕は完璧で、元に戻っただけではなく、まるで新品のようだ。胴体の部分は磨かれて光沢があり、弦も輝かしい。そして、
瑞穂に贈ろうとして、果たせなかったカメオのブローチだ。胴体の上、演奏の邪魔にならない箇所に嵌め込まれている。章一郎は鮮明に思い出した。誰も居ない控え室で、ギターラの丸い穴にこっそり落としたのだ。楽器の部品と勘違いしたのか、それとも修理人が気を利かせたのか、巧みな象嵌で、美しい一部と化している。
「ああ、これ気になるかしら。何でしょうね。楽器屋さんの商標かな。とっても綺麗で、わたしは気に入っているわ」
真相を告げる勇気はなかった。
病人に余計な気遣いをさせまいと配慮したのか、男勝りの美女が電話口で事件の経緯を話した様子はない。色んな人々と巡り合い、泣いて笑って、縛られて逃げた。話しを聴かせたら親指姫は、冒険小説の読み過ぎだと言って、吹き出すだろうか。
「バルコン*に出ましょう。そこで一緒に、最高の曲を披露しましょう」
窓の脇にある扉から、二人で露台に出た。患者が日光浴をする為に設けられているのだという。爽やかな風の通り道だ。西向きで海は望めないが、小高い山の嶺が見渡せる。午後の日差しを受けて、緑が眩い。
ゆったりとした椅子に腰を落とし、瑞穂は音階を確かめ、整える。少し前は毎日のように眺めていた調弦だ。何度も締めては緩め、緩めては締める。ブローチがきらりと光った。浮き彫りの女性の横顔が、演奏者を見詰める。
低い声と高い声を交互に発して、章一郎が喉を慣らし、それが終わると、前奏が始まった。演目の最初を飾る、あの曲だ。静かで、切なくて、また荘厳な趣きがあって神々しい。
遠くの木立は、火照った柔肌に似た艶やかな色に染まっている。高原では季節が少し遅れて今正に春爛漫だ。風に乗って届け。このギターラの調べと、この歌声。聴き給え、
【完】
<注釈>
*バルコン=露台、バルコニーを指す仏語。堀辰雄作『風立ちぬ』では、生と死の境界線として象徴的に描かれるが、本作に於いてはその限りではない。
一陣の風
<後記>
最後迄お読み頂き誠に有難うござゐます。
エピロオグは御座ゐませぬ。ハッピーな桜エンド、季節柄、其れも一興でせう。
<主な参考文献>
ロラン・バルト『S/Z』(みすず書房 一九七三年)
阿久根巌『サーカス誕生』(ありな書房 一九八八年)
レスリー・フィードラー『フリークス』(青土社 一九九〇年)
曲藝團の畸型 蝶番祭(てふつがひ・まつり) @MadameEdwarda
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