『銀輪は陽光を浴びて煌めき、軽やかに廻る』

 風が立った。丘陵を登り切った箇所の緩やかな曲がり道で、章一郎は自転車を停め、海を眺めた。沖合を渡る船のほばしらが、金波銀波に囲まれて浮き沈みする。海鳥の一群は、気流に乗っているのか、抗っているのか、上へ下へと乱れて舞う。


 位置的には大き湾を挟んだ向こう側、北東の方角にあの忌まわしい洋館の建つ半島があるはずだが、霞んでいて見渡せない。


 朝に出発してから二時間が経つ。腕時計は福助からの貢ぎ物だった。重たい金庫を発見した部屋の引き出しに二本あったと言う。その内の一本を贈呈されたのだ。友達想いの粋な計らいだが、盗品である。この腕時計の持ち主ついては、余り思い出したくない。


「もっと乗り方の講習を受ければ良かった」


 自転車は彩雲閣の所有物だ。宿泊客への貸し出しは稀で、普段は使用人が使っているものらしい。章一郎は自転車に乗った経験がなかった。そこで、明け方からたつみによる特訓を受けたのだが、操縦方法に関しては大雑把だった。

 

「乗ってりゃ、そのうち上手く乗れるようになるじゃろ」


 長老様が手ほどきしたのは、非常時の備えだった。車輪を回す鎖が外れると、立ち往生して一貫の終わりになると言う。大袈裟に思えたが、巽は一歩も譲歩せず、何回もわざと鎖を外し、それを章一郎に直させた。手が油で真っ黒になって、雑巾で拭っても容易に落ちなかった。


「自転車も乗ったことがないのに、大きなトラックも高級な自動車も運転したとか、そんなもんは滅多に居ない。世界で初めてじゃないか」


 番頭は当初、乗り方講習会に熱心に付き合っていたが、遅れて双子が登場すると関心が移って、地味な作業には目もれない。二人の性別は誰からも聞かされていないようだ。興味津々だったのは幽霊の正体に関する件で、真相を知らされるや番頭は妙に興奮して、目を輝かせた。

  

「幽霊ちゃん」


 双子のいずれかを問わず、番頭はそんな不名誉な渾名を考案して呼んだ。曲芸団の公演が千秋楽を迎える前、彩雲閣でお化け騒ぎがあった。面白がってか、怖がってか、噂を拡散した人物の独りが番頭だった。昨日の夜更け、福助が騒動を思い出して二人に尋ねたところ、石燈籠の横で幽霊に見間違われたのは極夜きょくやだと判明した。


「よく覚えていません。カーテンの閉じられた真っ暗な部屋から変な音が聴こえて来て、それで近寄ったような気もするけど、さあ、よく覚えていない」


 それでも石燈籠の形状を説明すると記憶と合致した。変な音とは霊交術の劇伴曲で、演奏者は柏原だ。幽霊扱いされた本人が明かす決定的な証言である。更に、そのお化け騒動に関連して、もうひとつの重要な証言が飛び出した。曲芸団の命運に係る大問題の端緒。特に勾引かどわかされた者にとっては、人生をも左右する分岐点がそこにあった。


「要はお金の話しです。あの男は、前金だとか何とか言って、机に現ナマを積み上げたんです。いえ、ちょっと言い過ぎました。そんな目を見張るような大金ではなかったかも」


 幽霊役になった後、極夜は副島そえじまに連れられて旅館内に入った。行き先は太夫元たゆうもとの宿泊室だ。極夜はそこで生々しい話しを耳にした。一部不確かな部分もあるが、会話の切り出しから両者が大筋で合意に至るまでを部屋の隅で聞いた模様だ。


「もし、その時に副島の申し出を断っていたら、どうなったんだろう…」


 章一郎は路傍に水道の蛇口を見付け、自転車を停めた。ひと口飲んで喉を潤し、水筒に注ぎ足す。少し先にはバスの停留所があって、長椅子が置かれていた。座り込んで、上着を脱ぐ。背広なんて着て来るんじゃなかった、と悔やむ。


 道中、人目に触れるのが嫌で、出掛けに釣り師に変装したが、女将に止められた。ちゃんとした格好で行ったほうが良いと指南する。背広は白夜びゃくやが何着か予備を持っていた。大きさが丁度だと知って、章一郎の為に洋館の洋服箪笥から拝借したのだと明かす。自分の服を差し置いて、旅行鞄に詰め込んだのだ。思いも寄らぬ心配りだった。


 他人の為に何かを犠牲にすることは、簡単なようで難しい。金を受け取った際、太夫元は大切な曲芸団を犠牲にする心構えがあったのだろうか。充分に危険な匂いを嗅ぎ取っていたはずだ。実際のところは、分からない。だが、ひとつの生命を守ろうと懸命だったことは確かだ。自分は惚けていて、知ろうともしなかった。


「入院費がどうとか、あの男は渡す金を増やして。お年寄りは随分と悩んでいるみたいでしたが、最後は押し切るような、そんな感じです」


 極夜の証言はそこまでだった。柏原によれば、療養施設への入所には纏まった支度金が入り用になるという。庶民にとっては三等病室でも敷居が高い。推測の域を出ないが、入院費用は女将が立て替えた。太夫元は順次返済する予定だったが、入院の期間が長くなる恐れもあって総額は不明。金策に行き詰まり、途方に暮れる最中、副島が現れて目の前に現金を積まれた…


 判断に誤りがあったと決め付けられない。己の身に置き換えた場合を想定すると、章一郎は忸怩じくじたる思いに包まれる。ふらりと現れた素性の知れぬ中年男を信じ、頼ったのは他ならぬ自分自身だ。妙な口調だが、言葉は巧みで、身なりも整っていた。


 父様とっさまは、太夫元は、そんな男を相手に賭けに出たのか。いや、違う。賭けに出たのは副島だ。姦計は概ね首尾よく進んだが、大詰めに至って裏切り行為が重なり、賭けに敗れた。太夫元に差し出した大金。奴はそれで地獄行きの切符を買ったのだ。


ざまは無い。ほんと、様は無い」


 自転車で軽快に坂道を下りながら、狼男は吼えた。


 

           【次回が最終話となります】

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