『憩わし給へ 悩める此の心 君に祈ぎ奉る』
遊戯施設の側にある寫眞館は日暮れまでの商いで、既に閉まっていた。
作造は近所の商店で日本酒を一瓶購入したが、最も安い品ではなく、少し値の張る銘柄を選んだ。
季節は巡り、梅の木は小粒の実を宿していた。花街に続く遊歩道の桜並木は、満開の時期を過ぎて、緑が芽生えている頃合いだろうか。章一郎は旧館の前の裏庭に立ち、星空を仰ぎ見る。過日も風のない夜だった。女将に案内されて、秘密の温泉を独り占めした。それから
体毛が湯船に浮かばないよう念入りに身体を洗い、熱い湯に浸った。旨い料理に舌が喜ぶのと似た、形容し難い快感だ。血が踊って、爪先から頭の
あの時、女将は全身を覆う深い毛について知っていた。一片の記憶もないが、幼い自分をあやし、
嘘っぱちの殿様湯と紹介された。皮肉なものである。殿様気分で上気した者は、その後、哀れな捕囚になって異国に売り飛ばされる寸前にまで
「お邪魔します。驚いたりしないでね」
専用の秘湯に、突然、双子の片割れが入って来た。素っ裸で、頭に手拭いを置いている。章一郎はすわと立ち上がり、背を向けた。片割れはもう一度、驚かないよう訴えた。どちらだろうか…
「ふわあ、熱いなあ」
いきなり、湯船に飛び込んだ。男同士だと解っていても恥ずかしく、章一郎は激しい胸の鼓動で自分の頬が紅潮していることを知らされる。茹蛸の一寸法師を笑えない。勇気を出して振り向くと、首筋に
「作造さんに秘密のお風呂があるって聞いたんです」
秘湯がある裏庭で、作造と良からぬ相談をした覚えがある。大男は親切心から二人に教えたのだろうが、余計なお世話とも言える。それに、少しだけ時間をずらせば済むことを、わざわざ先客が堪能中だと知って、勧めたのだろうか。更に、もう一人入って来た。
「お独り様専用じゃなくって、広いって聞いたけど、うーん、三人だとちょっと混雑しちゃうかな」
白夜は飛び込んだりせず、しっかりと身体を洗う。男の子の上半身だ。けれども線が細く、肩幅も狭い。筋肉とは無縁で、
「手術を受けて、ちょっと経った頃かな、連れられて百貨店に行ったんだよね」
白夜は後ろ向きで、湯に浸かった。お臀の辺りが膝に当たって、また緊張する。殿様湯は楕円形で、敷布団くらいの大きさがあるが、それでも腰掛け用の段差が幅広く、三人も浸かると密着する。
「婦人用の手洗い場に入るしかないんだって気付いた。そんなこと考えたこともなかったけど、駅なんかも同じで、男女別々になってると、ああ、こっちかってね。初めの頃は、婦人用の個室に入って、惨めな気分になった」
彩雲閣の大浴場も当然、男女別だ。酔っぱらいの旦那衆が集う風呂場に双子が足を踏み入れたら、騒ぎになってしまう。もしかすると、二人は大浴場の前で悩んだのかも知れない。前に訪れた時、章一郎は抵抗があって、思い留まったものだ。
「銭湯だっけ、あの町中にあったりする大きなお風呂屋さん。いつか入ってみたいって言うか、いつか入ることになるんだよね。どうなのかなあ、もちろん男湯のほうだよ」
白夜がそう言って笑うと、極夜も笑った。真っ白な肌が桃色に染まって、二人は
湯煙が震え、視界が少し晴れたように思われた。
錯覚ではない。二人が静かに歌い出したのだ。初めて耳にする双子姉妹の合唱。聞き覚えのある曲。汽車が目的地に着く直前、極夜が囁くような声で歌っていた。『アヹ・マリア』という題名の讃美歌と教わった。
琴線に触れる。それは弦を爪弾くかのように胸を打ち、また胸に沁み入る。妖精たちの斉唱。安らかで尊く、深山幽谷に
<注釈>
【最終話まで残すところ、二話となります】
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