『放蕩の宵に一寸法師が球を撞く』

 相変わらず、球撞たまつきは下手っぴだった。隣で興じる熟練者風の男は、わざと真ん中からずらして端を撞く。すると球は回転が掛かって緩やかな弧を描き、二つの赤い球を弾き飛ばした。こちらはひとつ当てるのに苦労して、前に進まないことも多々ある。


 それでも楽しい。白夜びゃくやは初めてだと言うが、筋が良く、撞く姿も様になっている。異常に短いスカートを履いて、遊び人連中の視線を釘付けにしていたのは極夜きょくやのほうだったか。嫌な記憶も残る撞球場どうきゅうじょうではあったが、今は和気洋々と賑やかで心躍る。


 この日の夕餉の後、極夜が寫眞館に行くと申し出た。目抜き通りに立派な店舗があって、そこで現像を依頼したいのだと言う。またたつみは章一郎と作造に対して、酒を買ってくるよう命じた。鞄の中の葡萄酒は保存しておきたいようだ。長老は朝からの強行軍で疲れ果てていると愚痴る。そして、疲労を癒すには清酒が一番の妙薬だ、と壮語して珍しく厳命した。


 飲兵衛の我が儘ぶりに、章一郎は呆れ果てた。しかし、その命令の裏には、若い者だけで気晴らしでもしてこいとの配慮があったようにも思える。別当べっとう青年は動悸を理由に遠慮したが、近くだからと言って白夜が彼の手を握った。


「胸がどきどきしたら俺が担ぐ。実際のところ、野郎独りなんざ襟巻きを掛けているようなもんさ」


 優しい巨人は呵々と笑った。当然の如く福助も付いて来る。浴衣姿の双子姉妹と人生初の散歩に挑む青年、そして曲芸団の三人で夜の街に繰り出した。


「釣り銭があったら、それで遊んだり、何か食ったりしても構わんぞ」


 長老様はそう言って金を手渡したが、元は章一郎と作造がお座敷で貰った御捻おひねりだ。それでも稼ぎ手は苦笑するだけで、文句も垂れない。業の深い金とも言え、酒代に変わっても惜しくはなかった。


「もう一度、宴会で芸を見せるって手もあるんじゃないか」


 床に四つん這いになった大男が提案する。福助が球を撞くには背丈が足りず、章一郎と作造が交互に踏み台にさせられた。こんな時に限って裸足ではない。一寸法師は編み上げ靴が気に入って、旅館の中も履いたまま歩き、仲居に注意されていた。


「飛び込みでホテルに行っても、相手にされないだろう。前の時は、事前に手筈が整ってたんだ」


 往時は段取りが完璧だった。宿側の担当者に話しが通り、出演の予定も都合良く組まれていた。叩き割る瓦など怪力芸に用いる小道具も準備され、出稼ぎの二人は、何者かが敷設した軌道の上を適当に移動するだけだった。堂上どうがみ独りが画策したものとは考えられないが、どこから副島そえじまが関与し、主導していたのか、今となっては真相も藪の中だ。


 それでも、当座凌ぎの日銭を稼ぐ必要がある。曲芸団の居場所が判明するまで、何日か要するかも知れない。女将は有り難いことを言ってくれたが、何時までも居候いそうろうするわけに行かず、また八人の次の移動でも路銀が必要となる。手持ちの資金だけでは心許ない。


「わたしが、海辺の公園だっけ、そこで歌ってお金を貰うってのは、どうかな」


 臨海公園の大道芸のことである。観光客が押しかける季節には、方々から芸人が集まって盛大に催されると聞いた。白夜は夜鳴き蕎麦の一件で自信を深めたようだが、無闇に注目を浴びる行為には危険な香りも漂う。逃避行は終わったと言え、露出は極力避けたほうが無難だろう。


「おいらは釣りして、赤い魚を集めて、そんで旅館に只であげる」


 意外にも福助が真っ当なことを言った。芸で稼ぐ方法を思案するよりも、地道に働けば良い。ちょうど彩雲閣さいうんかくは満杯の客で、人手が足りない箇所もあるだろう。大男と狼男は力仕事全般、双子姉妹は厨房の手伝いなどが適材適所ではないか。見返りに、ほんの少し駄賃を頂ければ充分だ。


「えーと、お料理とか全然したことないんだよね。林檎の皮を剥くのが精一杯かな」


 炊事の経験はないと明かす。白夜は包丁を持つだけで手が震えるという。極夜は別の意味で手が震えるそうだ。取り分け、日本刀が好きらしい。縄を断ち切った五徳ナイフは秘蔵の逸品で、柏原から返して貰った際、すごく喜んでいた。


「窓を拭くとか床を磨くとか、仲居さんだっけ、お掃除の手伝いなら出来るかも」


 控え目な申し出だが、その姿を想像すると派手だ。彩雲閣の仲居の制服は鮮やかな橙色の小紋で、流れる雲が描かれた空色の前掛けも洒落ている。それを外国のお人形さんが着たなら、必ずや宿泊客の目を惹くことになるだろう。


 この撞球場でかつて遊蕩した時、附近の演芸場で出会った時、双子はいずれも見知らぬ他人に過ぎなかった。それが鬼一口おにひとくちの危機に瀕し、冥い海からくがに上り、息急いきせき切る逃避行を経て、伴侶つれとなった。


 不思議なえにしの奇妙な巡り逢い。この先も二つの夜が寄り添い、永く共にある…章一郎は確信に近い感覚で、そう捉えた。


 福助が力んで、また球が大きく逸れて床に転がる。その失態を見て白夜が笑い、極夜が慌てて拾いに行く。別当青年は飲み物片手に高みの見物だ。彼らがずっと昔から一緒に暮らす仲間であったかのように思えてならなかった。


 目方は軽いはずなのに、編み上げ靴の踵が食い込む。一寸法師は小躍りして、二度三度と跳ね、何時まで経っても背中から降りる気配がない。

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