『長閑也や春の穹 花は主人、鳥は友』

 酷い話しである。旅館に着くなり柏原は玄関脇の事務所兼応接室に入り浸り、レコードの試聴に取り掛かった。副島そえじまの洋館から略奪してきたもので、二十枚以上もある。自分たちは盗人じゃない、と言って自粛を促した当人が、こっそり拝借していたのだ。


「本邦に二枚あるかどうかも疑わしい貴重な輸入盤で、この機を逃したら一生手に入らない」


 価値の分からない者が捨てたり焼いたりするのを未然に防ぐ為で、保存の意味合いが強いという。言い訳がましいが、実際に希少価値が高く、入手困難な代物のようだ。収録された楽曲の種類は、亞米利加アメリカで大衆的な人気を博す黒人音楽らしい。乱れ飛ぶ専門用語を理解しているのか、一緒に聴く彩雲閣さいうんかくの番頭は楽団リーダーの解説に、うんうんと頷く。


 老舗の高級旅館に泊まる考えは毛頭なかった。一行は近辺の安宿で荷解きをする予定だったが、その前に、例の女将に挨拶をしに行ったところ、ここに泊まっていけと言って譲らない。現在は、二月に来た時と違い、繁忙期で一般の客室は満杯だ。


「畳も襖も古いままですが、電球だけ取り替えれば済みますので」


 一行は敷地の最奥部にある旧館に案内された。秘密の温泉の近くにたたずむ古めかしい建物だ。取り壊しを待つ状態で、長らく客を通していないという。埃っぽく、窓の開きも滑らかではなかったが、何の文句もない。無料だ。工事が始まるまで、好きなだけ泊まって行けと女将は仰言る。


「娘さん方は、二階の少し日当たり良いお部屋にでも」


 章一郎が真実を告げると、女将は上品に笑い、やがて目を白黒させた。可憐な双子が色を添える斬新なサーカス団は、その実、男所帯である。ただし、何の気兼ねもないと言えば嘘になる。章一郎は、双子と布団を並べてる寝る光景が想像出来ない。心の準備とか、その辺りの問題で、不眠症になるのは福助独りでは済まないだろう。


「別の部屋なんて要らないよ。これまで、わたしたち二人と歌劇団の女の子が同じ寝室を使ってたことのほうが変だったんだよ」


 お説ごもっともだが、明るく話す白夜びゃくやの姿を見ると、何か違うようにも思える。初めて演芸場で会った時、彼女は違和感なく歌劇団の集団に溶け込んでいた。飛び抜けた美少女ではあったが、自然体だ。一方、曲芸団の面々に囲まれると、完全に浮いていて不自然な印象が甚だしい。


「あんまり気にせず、適当に扱ってくれれば、そのほうが自分たちにとって都合が良いんです。お互いに、少しずつ慣らして行けば、もっと気が楽になるし」


 極夜きょくやがきっぱりと別室扱いを拒絶した。この子は恐らく言い出したら、絶対に折れない。結局、二階の部屋には、いびきのうるさい大男と確実に酒盛りを始めるだろう長老を押し込むことで落着した。


 酷い話しだ。すっかり綺麗になった旧館の部屋で荷を解くと、各人の鞄から様々な見慣れない品々が出て来た。戦利品と呼ぶらしい。たつみは葡萄酒、福助は腕時計に万年筆、それに軍用と思しき黄土色の懐中電灯。だいたい、ずだ袋をなくした福助や手ぶらで土蔵に放り込まれた柏原が、逃避行の道中で荷物を抱えていたことが妙だったのだ。章一郎は去り際に蜜柑を二つばかり頂戴しただけだった。


「それじゃ、一杯引っ掛ける前に、行くとするかのう」


 広縁ひろえんでお茶を味わう間もなく、葡萄酒窃盗犯に誘われた。女将のところに行って、少々世間話をするという。章一郎は一瞬、実の母親に関することかと思ってはっとしたが、瑞穂みずほの件だった。それも緊張感が走る。女将は連絡を取り合っていて、確実に最新の状況を知っている。吉か凶か…


「まず、安心して聞いて下さいませ」


 開口一番、女将はそう言った。最近、問い合わせたのは一昨日。先方の院長先生によると、症状は入院患者の中でも軽いほうで、胸部を撮影した写真に心配な影は見当たらなかったという。写真はレントゲンと呼ばれるもので、最も的確に診断出来るらしい。凶ではなく、吉だ。章一郎は安堵した。ちなみに、施設はサナトリウムと呼ばれ、深刻な患者が居なくもないが、陰気な病棟ではなく、保養所を想像すれば概ね合っていると話す。


「今から電話してみます。先生が忙しくなければ良いのだけど」


 五日ほど前に女将はそのサナトリウムを訪れ、瑞穂に会ったという。面会が可能なのだ。感染症の患者が多く、基本的に面会は近親者に限られるが、章一郎にはその資格があるという。瑞穂の身元引受人は曲芸団の太夫元たゆうもとである深川で、入院費用も彼が支払った。それは父子の関係を示唆する発言だったが、章一郎は気がはやっていて、頓着する余裕がなかった。


 柏原がまたレコードを取り替えた。喧しい雰囲気の曲で、太鼓の音ばかり目立つ。

 

「ええ、面会の者は深川と申します。はい、その点は諒解しております」


 面会は明日でも明後日でも構わないと言う。章一郎は迷わず、明日と答えた。



<注釈>

長閑也のどかなりや春のそら 花は主人あるじ、鳥は友=里見義作詞『埴生の宿』第一節の歌詞を若干調整したもの。

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