『かひやぐらの夜』

 追手が迫る形跡はなかった。後方より急接近する車両は何台かあったが全て杞憂で、速度を落とすと忽ち追い越して行った。夜更けにも拘らず、擦れ違う車も多い。国際港の周辺は、田園地帯とはまるで違った。運転も慎重にならざるを得ない。


「野郎が三人くらい居れば、あの倒した三輪車を起こせるだろう。堂上どうがみは、どうだったかな、車の運転が出来るかも知れん」


 小人楽団のリーダーは常に冷静で、最悪の事態を想定して動く。土蔵からの脱出謀議でも危険度の高い方法や致命的な失敗に繋がりなねない策は直ちに退けた。この常識人が注意しなければ、大雪の日に福助が窓から飛び降りて、足跡を点々と刻む始末になったはずだ。  


「下働きの男と一緒に板を持ってたのが、運転手だよ。普段は歌劇団のバスを運転してる」


 土蔵への連行と拉致監禁に直接関わった人物だ。洋館の近所でバスが不自然に停まった際、章一郎が話し掛け、柏原も顔を見ていたが、何も覚えていない。たつみが目撃した限りでは、その運転手が最も遠くに投げ飛ばされたという。彼もまた無事では済まないだろう。


「手品師はどうだろう。俺たちを追っ掛けるより、海に散らばった金を掻き集めるのを優先するんじゃないか」


「あのお札、使えるのかなあ」


 白夜びゃくやによると、変な色の紙幣で、見たことのない肖像画が描かれていたという。それが、船上で起きた悶着の原因だった。亞米利加アメリカの紙幣で受け取る手筈になっていたが、異邦人が持って来たのは謎の札束で、副島そえじまが約束が違うと怒り出した。おまけに換算した額も合わなかった模様だ。


「少し足りないとかじゃなくって、ひと桁違うみたいな、そんなこと言ってた。詳しいことは外国語なんで分からないんだけどね」


 不測の事態は昼間から起こっていたという。段取りでは倉庫裏に取引先の親玉が現れることになっていたが、幾ら待っても来ない。日没直後の予定だった五人の身柄引き渡しも大幅に遅れた。長い待ち時間を支配人と過ごすのは嫌だったと白夜は愚痴る。

 

「妹は慣れっこかも知れないけどさ、あいつ、人前でお尻触ってくるんだよね」


 一寸法師が飛び跳ねたような音がした。歌劇団の支配者と若い娘たちとの関係性だ。福助が発狂しかねない不穏な流れになりそうだったが、柏原が外国の紙幣が何だとか言って、巧みに切り替える。さすが智恵者にして常識人だ。余談で副島の正体も判明した。


 実際のところ、芝居や演芸に詳しいわけではなく、特段の興味もないと言う。副島は何年か前まで遣り手の貿易商だった。当時から闇の仕事に手を染めていたのか、羽振りが良く、ある時、大枚をはたいて歌劇団を買収した。それが双子姉妹の居る現在の少女歌劇団だ。


「歌劇団ってのは、そんな儲かる商売なのかねえ。一時の流行も去って、小さいとこは鳴かず飛ばずみたいな噂だが。あの洋館だって、この高級車だって、相当なもんだろうし」


「うーん、蓄えとかは分からないけど、舞台のほうはそんな稼いでもなくって、逆に減ってるかも。ただ、外国との取引のほうは昔の仕事仲間が一杯居て、今も出入りしてる。印度の生薬とか、何だっけ、痛風だか腰痛だかに効く丸薬だっけかな。そんな薬を扱ってるはず」


 歌劇団主宰者は表の顔で、裏の顔は密貿易の暗黒商人というところか。異邦人との接触や埠頭の倉庫拝借も納得がいった。一介の興行師が出来る芸当ではない。一方で、章一郎は勧誘を受けた際の専門用語の羅列が素人の戯言には思えなかった。その辺りを白夜に問うと、外国事情に精通し、まめに海外の新聞や雑誌を読んでいることは事実のようだった。


 副島の話しに夢中になって少々道に迷ったが、白夜が指示した通り、軍港として知られる街の案内標識があった。手前附近で右折する。坂道が増え、道路も狭くなった。地勢については巽が断片的に記憶していた。遥か昔に巡業で訪れたことがあるという。深川曲芸団ではなく、大サーカス団で活躍していた頃だ。


 おおよその見当が付いた。走行しているのは、帝都の南に位置する小さな半島だった。倉庫が並ぶ埠頭はその東にあり、目的地は西側だ。章一郎が屋根裏部屋から見た海の向こう、夕陽が沈む方角には懐かしい温泉街がある。遠い別世界に連れ込まれ、引き摺り回されたように思っていたが、さほど離れてもいない。小さな世界の、世間の誰も知らない小さな物語だ。


 長老は助手席で眠ってしまった。無理もない。未明に襲撃を受けて以来、殆ど寝ていなかったのだ。丸二日以上が経過しているような感覚もある。また白夜がくしゃみをした。屋根の上の大男はとても寝ていられないないだろう。まともに風を受けている。


「お嬢ちゃん、寒いんじゃないか。なあ、章一郎、窓を閉めるわけにはいかんのか」


「ダメなんだ。手が見えるでしょう。窓の縁を作造が掴んでるんだ。握れる取手みたいのは、ほかにない。でも、確かに風が冷たくなってきたな。あ、外套がどこかにあるはず」


 長老様が座布団にしていた。副島の外套だ。忌まわしい悪の匂いが染み付いているかも知れないが、防寒には最適だろう。座布団を引き抜いても、目覚めない。

 

「お嬢ちゃん、これを羽織ればいい。でも、あれだな、上着の下もずぶ濡れのままじゃねえか。少しも乾いちゃいねえ。そうだよな、章一郎も二人とも海の中、泳いでたんだからな」


 外套を引き取ると、白夜は軍服調の上着を脱ぎ、シャツのボタンに手を掛けたようだ。早まっちゃいけねえ、車を脇に寄せろ、と柏原が騒ぐ。お説ごもっともである。しかし美少女は、必要ない、と断る。少し間を置いて、言った。


「心配いらないんだ。わたしは、本当は、男子なんだから」


 今、何と言ったか。白夜は何と言ったか。もう一度、彼女は息を整えて同じ台詞を繰り返した。悪い冗談なのか、まだ夢の中を彷徨っているのか。章一郎が振り返って見詰めると、少女は真剣な目をしていた。


 操縦を忘れて、踏むべきペダルも間違えて、車は道路脇に大きく逸れた。石塊いしころを噛んでわだちを越えて、がたがたと振動し、屋上の巨人が振り落とされた。車は減速しつつ直進し、大木に衝突して漸く止まった。



<注釈>

かひやぐら=蜃気楼のこと。蜃楼(かいやぐら)とも表す。

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