『北辰に背いて陰翳を引き裂け』

「なにぶん、車を運転するのは一年振りくらいなんで…いや、もっと前かも」


「なに、章一郎。お前さん、さっきは半年前と言っておったじゃろ」


 正確に記憶していない。しかも章一郎が曲芸団のトラックを運転したのは、明るい昼間の時間帯で、農村近辺だった。見通しの良い平地と夜間の市街地では大きく異なる。自ずから速度は低下した。


 危なっかしい運転の一方で、目的地は定まった。白夜びゃくやは、妹を救出したいと訴える。異論はない。監禁されていた場所に急いで戻るのは心情的にやや複雑だが、異議はない。問題は、あの洋館までの逕路けいろだった。白夜によれば、南に進んで右に曲がれば、そのうち着くという。もの凄く単純な道案内で、全然、分からない。闇雲に走るとは正にこのことだ。


「車の後ろにの星を探せば、正しい方角が判る」


 子の星とは北辰ほくしん、北極星を指す。住宅地や曲がりくねった坂道で方向感覚を失う度、柏原は車から降りて北斗七星を探した。柄杓型の先で輝く星が、北極星だ。何回目かに彼が降車し、後部座席に取り残されて二人きりになった際、白夜が福助に話し掛けた。


「あの時、演芸場の一階だかで会った時のこと覚えてるかなあ。嬉しかったけど、申し訳ないことをしたかもって…」


 顔写真購入の件である。一瞬で蛸が茹であがった。憧れの子が隣に居て、親しげに話し掛けてきたのだ。一寸法師が勇気を奮って、言葉を紡ぎ出す。


「あのう、さっきから言ってる妹って、なんのことでしょうか」


 極限まで緊張して敬語になっている。双子である事実を知っていたのは章一郎だけだった。話し半分なのも無理はない。波止場の倉庫でも岸壁でも、特に話題にしなかった。最大の危機が身に迫り、実の父親についても明かされて、それどころではなかったのだ。


 白夜は車中の全員に聞こえるように、やや大きな声で説明した。写真を売ったのは自分で、副島と一緒だったのは双子のもう一人。髪型もお揃いで誰も違いが判らない。そして、強い口調で妹をかばった。


極夜きょくやは、妹は、少しだって悪くない。渋々、支配人に付き添ってたんだ。顔は同じなんだけど、うーん、わたしはちょっと反抗的というか、そんな感じで、妹は素直って言うのかな。でもね、強気なとこもあるんだよ」


 驚いたことに、五徳ナイフを密かに差し入れたのは極夜だった。その日、双子姉妹は強い危機感を抱いた。翌日に予定していた単発の仕事が急遽中止になったのだという。前にも同じようなことがあった。支配人は朝から忙しく、蔵から誰かを出して、夜遅くまで帰って来なかった。


「動きがあるから急がなくちゃ、って妹は言うんだ。それで刃物を届けることになったんだけど、人目があって、結局、隙を見てスープの中に隠した。移動する時とかに縄を切れれば逃げ出せるかも知れないって」


 五徳ナイフは極夜が副島にねだって貰い受けた品だという。巧妙に隠したつもりだったが、無事に届いたか否か、確証はなかった。未明の連行劇があった後、屋根裏部屋を調べてみると、見当たらない。男たちが奪った可能性も高い。念の為に、白夜が別の刃物を渡すべく、志願して入れ替わった。気付かれないよう背後に回り込み、縄を断ち切る算段だった。

 

「でも、全然上手く行かなかった。もうこれしかないって感じで、混乱させれば何とかなるかもって、懸燈カンテラを投げたんだ。無茶苦茶だよね」


 火を放てば、見張り役が消しに来て、岸壁には誰も居なくなるはず…計画は杜撰で稚拙だった。しかし章一郎は、そうであるが故に、無謀な行動に彼女の強い意思が込められているように思えた。白夜は隠し持っていた折り畳みナイフを取り出し、福助に手渡した。細やかな贈り物だという。


「わたしはともかく、妹はつぐないって言うのかな、そんな考えもあったみたいだよ。支配人と一緒に居て、みんなを騙すのにひと役買ったみたいな。いつか全部ばらしてやるとか言って、証拠の写真も撮ったそうだよ」


 写真と聞いて、章一郎の脳裏に何日か前の光景が浮かび上がった。左手を負傷した日、大混乱の最中、堂上の背後遠くに人影が見えた。背丈はやや低く、副島でも見張り役の男たちでもない。こっちを覗いているのに、顔の辺りは邪魔があって良く見えなかった。写真機カメラを構えていたのかも知れない。


「その、支配人、副島もお嬢ちゃんと妹さんの区別が出来んのかい。いっつも一緒におるのじゃろう」


「絶対じゃないけど、たぶんね。でも、まさかのことを想像して、細工してみたんだ。極夜、妹は首に三つの黒子ほくろが並んでいるのさ。歌劇団の子と支配人しか知らない。それを逆手に取って、出掛ける前に黒子を描いたの」


 首筋の黒子は、冬の星座のように三つ直列で並んでいるという。舞台の道具を使って描き、わざと見えるように強調した。海で泳いだけれど、きっと今も残っている…そう言って、福助に見せたようだ。一寸法師の素っ頓狂な声。章一郎は運転の最中とあって振り向けないが、蛸の茹で具合はおおよそ想像が付いた。


「妹はね、口答えなんかしない優等生で、支配人に依怙贔屓えこひいきされてたんだけども、そのぶん嫌な思いもして、最近は塞ぎ込むような時も多くなって…だから、向こうに着いたら、みんな優しくしてあげてね」


 妹想いの姉だった。章一郎は、仲良しの双子が副島に対して復讐心を抱いていたのではないかと勘繰る。聞くのも野暮で、酷だ。後部座席から小さなくしゃみが聞こえた。小鳥が囀るような可愛らしいくしゃみだった。

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