『千里眼を持つ東洋の魔人』

 舞台正面に垂れた緋色ひいろの幕の裏側から、縦笛の玲瓏れいろうたる音が届く。軽快な笛音に乗って一輪車にまたがった男が登場した。上半身は赤児を背負った老婆のように異様に膨れ上がり、手足は炎に炙られた枝のように捩れている。正しく、世に言う傴僂男せむしおとこに他ならなかった。優しげな瞳を持つその傴僂は、曲芸団の中で最も年齢が高いたつみという芸人である。


 黒塗りの革が剥げ落ちたサドルにしがみ付き、必死の形相で曲乗りする巽の姿は、見る者に憐憫れんびんの情を催させた。蝶が舞うような一輪車の曲乗りは終始危なげで、よろめき、急停止する。そして磁石か何かに引き寄せられたか、あるいは見えない糸にもてあそばれているかのように無秩序に動く。絶えず、予期せぬ方向に急進する一輪車を観客は目を細めて凝視した。


 大サーカス団では一輪車の綱渡りといった至極危険な芸が流行っているが、巽の演ずる一輪車の芸は、舞台の端から端へと音楽に合わせて往復するだけの単調なものだった。しかし、曲乗りは添え物であって、見せ物になっているのは明白に巽の哀れな体躯に他ならなかった。客の視線は傴僂男の異常な手足の反りと背中のこぶに集まり、巽自身もそれを承知であるかのように客に背を向けて歪んだ身体を強調するのだった。


 乗馬服を模した派手な衣装に身を包み、巽はただ口をつぐんで一輪車をつたなく乗り回し続けた。客が代り映えしない芸に飽き始め、私語が増えてくると、巽はその時を待っていたかのように車輪を止め、隠し持っていたゴム製のボールを上着の内ポケットから取り出して客席の中央へ投げ込んだ。


 客は咄嗟とっさに避け、赤いボールは転々とする。舞台上で巽は、ボールを投げ返してくれ、と言わんばかりの仕草を見せ、一人の客が床からボールを拾って舞台に放った。ボールは巽の真正面に飛ばず、大きく横に逸れた。しかし、俊敏な動きで巽は車輪を自分の足のように操り、ボールの落下点に達するや弧を描いて飛来するボールを見事に片手でキャッチした。


 当初の危うい一輪車捌きは巽の演技だったのだ。傴僂男は幾度も客とボールを投げ合っては、その度に達者な一輪車曲乗りの芸を披露し、万雷の拍手を貰った。最後に、巽はボールを受け取ると背中の瘤にせ、そのまま喝采を車輪を巻き付けて舞台を去った。


 しばしの沈黙が風に軋む天幕の内を支配した後、舞台を照らす灯りが弱まり、一筋の光を残して薄暗闇となった。アコーディオンの低い不協和音を伴って、まるで廃屋の壁に浮かび上がる亡霊のように、進行役の耶絵子が出現した。


「次なる演し物は、世にも不思議な千里眼を持ち、人の心を自在に読み取る東洋の魔人、当代随一の霊交術師れいこうじゅつし葦澤あしざわ先生による怪奇と幻想の透視術でございます。西洋は獨逸国どいつこくにて医学を学ぶ間、啓示を受けて心霊術を体得し、我が国に帰りまして後は、熊野三山に籠りさらに霊能力を研鑽けんさん、当一座と特別の契約を結びまして今日ここに登場する次第でございます」

 

 照明が完全に落とされ、天幕の隙間から漏れ入る外の明かりが、死にゆく蛍の淡い光のように蠢く。不安が客席を覆う。薄暗闇の中で周囲を窺う客たちが、青い照明に包まれて舞台に立つ霊交術師を見付けた時、天幕は複数の悲鳴に揺さぶられた。

 

 霊交術師・葦澤は傍らに助手を従えて直立し、闇の中の一点をみつめていた。浅黒い顔、印度インドの妖術使いを連想させる異国風の白装束。日本人離れした容貌は、見物客の恐怖と好奇心を募らせたに違いない。


「それでは」


 霊交術師は重々しく口を開き、助手に指図した。傍らの男は手ぬぐいを葦澤の頭に巻き付け、両目を覆い隠す。その目隠しをさらに強く締め直し、客に背を向けて厳しく構える。アコーディオンの嫌な音色と青い照明が、天幕内の景観をいっそう陰鬱にさせ、客たちを霊交術の世界にいざなった。助手は暗い客席に降り立ち、近くの客を選ぶと丁寧に話し掛けた。


「失礼ですが、お持ちの鞄の中を覗かせて下さい」


 女性客は躊躇ためらいながらも、ガマ口の手提げ鞄を膝の上に載せ、その口を大きく開けた。助手は鞄の中を探り、緑色の布に包まれた手鏡を取り出した。照明は助手を追い、掲げられた緑の布が薄暗闇の中に浮かぶ。


「みなさま、この手にした物が何色であるか、お分かりでございますね。偉大なる霊交術師、葦澤先生は目を封ぜられ、この物が見えようはずがございません。しかし先生は心の目、第三の目ですべてを見通していらっしゃいます。それでは先生、みなさまがご覧になっている物の色は、いったい何色でございましょうか」


「緑」


 葦澤は間髪を入れずに返答した。


 観客は葦澤の操る神秘の術に驚き、感嘆した。助手は沈着な態度で次の客を探して会場を巡り、木戸の近くで独りたたずむ若い女性に先と同じ要領で品を求めた。


「暗くて少し見えにくいやも知れませんが、この色が何色か、みなさま分かりますでしょうか」

 

 助手は客に向かってそう言うと、黒い革製の財布を高く持ち上げ、確認をとった。


「さてさて先生、この物は何色でしょうか」


「黒」


 再び葦澤は的中させた。会場は乾いた熱気におかされ、あらゆる視線が霊交術師の威風堂々たる背に向けられる。一群の婦人たちは舞台上の葦澤を畏敬の目で見詰め、最前列に座る男はどこかに仕掛けが隠されているのではないかと言わんばかりに身を乗り出して舞台の床板や幕の継ぎ目を眺め回した。心底から葦澤を妖術使いと信じているのか、巧みな奇術師と捉えているのか…多くの客は、透視の術を静観していた。


 しかし実のところ、偉大なる霊交術師・葦澤は洋行帰りの医師でもなければ、超人的な能力を得た仙人でもなく、単なる芸人の一人に過ぎなかった。その不可解で神秘的な霊交術は、ごく簡単な仕組みから成っていた。


 真の主役は、補佐するだけに見える助手で、舞台上の霊交術師と交わす言葉の中に暗号が隠されているのだった。助手は客から取り上げた品物の形状や色を符牒ふちょうに置き換え、解答を偽霊交術師に伝えていた。

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