『孤高の狼は群れに飛び込む』
鉄橋を下を潜り抜けて再び堤を歩き、章一郎は石橋のたもとに至った。古い橋のようだが、
感冒用のマスクを着けてくれば良かった、と章一郎は悔やんだ。黒眼鏡だけでは顔の半分も覆いきれない。太夫元から借りた外套の襟を立て、頬の辺りを隠す。少なからず奇異な印象を与えるだろうが、人々を脅かすほどに怪しくはなく、無頼な若者といった風采だ。章一郎は、変装も近頃は
石橋の中央で、川の上流にある山を仰ぎ、そして街を望む。公衆電話はおろか、商店の一軒もなく、民家が
脇が汗ばんでいるように感じるのは、舗道の強い照り返しのせいか、それとも胸の高まりが原因か。思いを巡らせながら歩いていると、危うく人と衝突しそうになった。
「これは失礼」
相手は年老いた女性だった。章一郎は反射的に手の平で口元を隠し、開き直って尋ねた。
「この辺りに、公衆電話はありませんか」
「さあ」
老婆は素気なく答え、話し掛けてきた男を見上げた。目と目がしっかり合う。章一郎は一瞬緊張したが、不測の事態は起きなかった。老婆は何事もなかったかのように、緩慢な足取りで去って行く。帽子の陰でよく見えなかっただけかも知れない、視力が弱かっただけかも知れない。それでも章一郎は、街の人並みを掻き分けて進む勇気を得た。
まばらに商店が軒を連ね、旅館風の建物が二軒あった。道は古い街道といった趣きで、真っ直ぐ駅前に伸びているようだ。思ったほど、人通りは多くない。学校帰りの児童と買い物に出かける主婦。荷車に箱を積む男たちは仕事に熱心で、通行人に目を配らない。誰かに近づくたび、章一郎は帽子を深く被り直したが、慎重を期す必要はないようだ。
街道と鉄路が急に接近し、間もなく駅舎が見てきた。そこも閑散としている。
駅頭で章一郎は思い違いに気付いた。歩いて来たのは駅の裏手だ。鉄路を越えた向こう側に、背の高い建物がいくつか見える。汽車の到着時間が迫っているのか、プラットホームには大勢の乗客が
雑踏だ。駅改札のホールは商店街の入り口に直結し、行き交う人影が幾重にも重なる。物売りがちらりと怪訝そうに見たが、構わず、値段を連呼した。特産品の出店に集まる女たちは物色に夢中で、切符売り場に並ぶ数人は路線図の確認に余念がない。構内に小さな駅弁屋があり、その横に行商人が座り込んでいる。好都合な混沌だ。章一郎は隅に設置された公衆電話を見付け、素早く受話器を取った。
「道中ご無事に、お越しください」
旅館の、恐らく女将は、声を弾ませて快諾してくれた。季節がら行楽客は少なく、部屋が埋まっていることはなかった。取り越し苦労だった。交換手による取り次ぎも滑らかで、用件は瞬く間に終わった。
女将は太夫元をよく知っている感じだったが、詳しい事情は分からない。それよりも章一郎は、澱みなく話すことが出来た自分自身に感心した。電話なら、こちらの顔が相手から見えない。卑屈になることも、反応に怯える必要もないのだ。新鮮な発見だった。
電話で話す経験は前にも二度三度あったが、その際は伝達される側で、機械的な応答の域を出なかった。妙に嬉しくなった。野営地で用件を命じられた際の不安感が嘘のように、
「びくびくすることなんてなかった」
帽子を
昼間の繁華街を闊歩するのは何年ぶりだろうか。長いトンネルを抜けた時のように何もかも眩しい。黒眼鏡を通しても、そこかしこに原色が漂っていることが判る。いつもなら野営の片隅で雑談に興じているか、うたた寝している時間帯だ。今日も同じような変わり映えのしない一日になるはずだった。それが、たった一件の頼まれごとで特別な日となった。
迷わず、一歩踏み出す勇気が大切だ。踏み出して、災難に遭遇することもあれば、また逆もある。
商店街の終わりには広場があった。中央には大きな樹が植えられ、木陰のベンチには楽しげな様子の男と女。広場の向こうに見える並木道は、工場街に続いているようで、煙突が間近に迫る。昼頃に立ち上る煤煙を眺めたのを思い出す。よもや煙突の麓付近に来ようとは考えもしなかったし、今ここにいることが夢か幻にも思える。
「耶絵子さんは映画館があるって言ってたけど…」
広場の日陰にしゃがみ、ひと息付くと、別の賑やかな通りが視界に入った。大きな建物も並んでいて、映画館はこちらの筋にありそうだ。人通りも盛んなようだが、意に介さない。
飲食店に時計屋、
洋品店のような、骨董屋のような妙な店舗に
長老の
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