『壊れたギターラが辿る運命の曲線』

 トラックを囲むように小さなテントが並ぶ。これらは舞台を備えた大天幕とはだいぶ違って、雨風を避ける程度の簡素な宿泊用である。移動中は座員の多くがそこで寝起きし、何の作業もせずに一日をやり過ごす。慣れたもので愚痴をこぼす者などいない。近頃は見掛けることもなくなったが、旅芸人の一座は野宿もいとわないという。


 テントの合間は、干し物で埋め尽くされている。いい洗濯日和だ。し物で使われる布地や衣装は色とりどりで、さながら万国旗のよう。朝方に川で洗った布はもう乾いているらしく、微かな風にも翻る。

 

 万国旗を潜ると、蒸気が目に入った。小人楽団の二人が湯を沸かしている。アコーディオン奏者の坂田と太鼓叩きの柏原だ。ともに章一郎よりひと回り近く年上で、顔立ちが似ていることから、二人はたびたび兄弟と間違われる。


「おう章一郎、ちょうど沸いたから、熱いお茶でも飲んでいきな」


 柏原が呼び止めた。世話好きで礼儀正しく、小人楽団のリーダーとも言える存在である。今日は率先してお茶汲み係を務めているようだ。章一郎は地べたに座り込んで一杯、そして二杯と飲み干す。いつもと違う味で、ふと瑞穂のことを思い出した。


「そうだ、柏原さん。瑞穂のギターが具合悪いみたいなんだ。弦が緩むのだとか」


 小人楽団のリーダーは楽器の達人でもあった。鍵盤も笛も弦楽器も巧みに奏で、不得手なものは見当たらない。瑞穂に手ほどきしたのも柏原だった。演奏するだけではなく、教えるのも上手いと評判だ。


「ギターラな。ギターじゃないんだぞ、あれは」


 知ったふうに言う坂田に、リーダーは苦笑した。


「糸巻きのペグって呼ぶ部分が馬鹿になっているのかも知れない。前にも調子悪いって聞いたけど、随分と前だぞ」


「なんとかなりませんかね」


 章一郎は楽器について、さっぱりだった。興味があっても知識はない。一度、縦笛に挑戦してみたが、初歩的な練習も及第点以下の無残な結果に終わった。その経験から、どんな楽器も巧み操る柏原を尊敬していた。


「金具の修繕はうまくいかないことが多い。取り替えるのが手っ取り早いんだが、あいにく同じものは手に入らない。あれは舶来品の中でも特別に珍しいもので、マンドリンのペグを代用するってわけにもいかんしな」


 ぼんやりとしか理解できないが、容易ではないようだ。瑞穂を喜ばせたい気持ちはあっても、具体的にどう対処すれば良いか、章一郎には分からない。やかんの蓋が鳴る。坂田が三杯目の茶を注ぎ、ごくりと飲む。


「章一郎か、そこにおるのは」


 深川の声だった。トラックの運転席から顔を突き出し、こちらを見ている。立ち上がった章一郎の服を掴み、盆に茶碗を置いた坂田が、持ってけとばかりに合図した。   

 

「親父さん、起きてたんですか」 


 太夫元は窮屈そうに窓から手を差し出して茶碗を受け取ると、軽く口をつけ、少し困ったような顔をした。


「すっかり眠りほうけてしまった。何もすることのない休日だ。のんびり過ごすのも良かろう。しかし、あんまりにも悠々としていて、ひとつ大事な用件があったのを忘れておった。済まんが、頼まれてくれないか」


 太夫元は一枚の紙切れを取り出して、章一郎に手渡した。印刷された立派な名刺で、宿屋の名称と住所、電話番号が記されている。そう遠くない地方だった。


「旅館でしょうか」


「そうだ。古くて綺麗とは言えないが、老舗の旅館だ。久しぶりに宿に泊まるぞ」


 心の中で雀躍こおどりした。旅館に泊まるのは、いつ以来だろうか。一昨年の秋くらいに田舎の小さな宿に連泊した。その前は廃旅館で、飯場の大部屋に似たところに詰め込まれた記憶も新しい。今度は名刺からも本当の旅館と判る。章一郎は一刻も早く、仲間に知らせたくなった。


「予定より早く到着する旨を伝えてほしいのだ。明後日の午後になる。それで、名刺に書かれている番号に電話してもらいたい」


 それほど手間が掛かる作業でもない。章一郎は二つ返事で引き受けた。自分が頼まれたことも、太夫元が興行に段取りに係る案件を他人任せにするのも珍しい。事務的な仕事は深川が一手で取り仕切り、補佐するのは耶絵子か太田くらいだった。

 

「電話は、どこからすればよいのですか」 


「駅に行けば、公衆電話がある」


 章一郎は愕然とした。この近くにあるものと思っていたが、違った。つまり、太夫元は街中に出向けと命じたのだ。ひどく面倒なことを引き受けてしまったと章一郎は後悔した。


 野営を見渡しても、その役割を代わりに担う者はいない。太田は朝から行方知れずで、耶絵子はさっき街から戻ってきたばかりだ。道具方は二人ほど残っているが、太夫元によると交渉になるかも知れないという。季節外れとはいえ、客室に空きが少なく、座員を全て収容できない恐れもある。その際は多少の無理を言って押し切らなければならない…


 無理を言ってるのは太夫元だ。交渉なんてしたこともなければ、見も知らぬ誰かに強くお願いした経験もない。どうやら自分は貧乏くじを引いた…章一郎は観念し、川向こうに広がる街を見た。黒みを一層増した工場の煤煙。鉄の軋む音を響かせて、汽車が橋を越えて行く。


「わしの名を出せば、なんとかなろう。昔のよしみじゃ。前にも世話になったことがある。お前は小さくて覚えてはいないだろうが」


 最後に深川が呟いた言葉の意味を噛み締める余裕は、章一郎になかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る