『この化け物と身重の母親は叫んだ』

「早く、早く、逃げて」


 声にならない悲鳴は、次いで、痛烈な言葉に変わった。章一郎たちが我が子を虐げていると勘違いしたのか、単に異様な風貌を見て直感的に危険を感じ取ったのか。まるでヘビでも狩るように、慎重な足取りで接近して幼女を確保した。兄と姉は、錯乱した母親の姿に驚き、怯えているようだった。章一郎は思わず妊婦を睨みつけてしまった。


「この化け物、子供は渡さないから」


 言い訳をする間もなかった。例え誤解を解こうとしても、取り乱した母親は聞く耳を持たないだろう。親鳥は巣に舞い落ちる木の葉をも外敵と見做みなして雛を守る。我が子をかばう母性本能の前で、理屈は通じない。瑞穂も弁解せず、また憤りもせず、子供を引率して立ち去る妊婦を眺めていた。悔しい、切ない気持ちは一緒だ。昼下がりの幸せなひと時は、雷に打たれて幕を下ろした。章一郎は歯軋りする。華やかな舞台はどれも別世界で、現実感を伴わない。


「歌のお兄ちゃん、お姉ちゃん、ありがとね」


 母親に手を引かれた姉が、振り向いて手を振る。章一郎はほんの少しだけ救われた気がした。母子四人の影は小さくなり、そして消えた。


 煌めいていた川面が澱んで見える。工場の煤煙ばいえんも黒みを増しているようだ。気怠い午後は、いつものことだった。野営地に戻ると瑞穂は日陰を求めて車内に去ったが、章一郎は木材をベッド代わりに、日光浴を続けた。


「章ちゃん、お待たせ」


 耶絵子やえこの声だった。今しがた買い物から帰って来たようで、その手には袋が吊り下げられている。弁当はあらたか配り終えたらしく、残りは僅かだ。


「はい、駅弁よ。名物なんだって」


「これはありがたい。ちょうど腹を空かせていたところだったんだ」    


 無造作に包装を開けると、焼き魚の匂いが広がった。山菜に煮付け。どれが名産品なのか、具材からは推測できない。耶絵子も材木に腰掛け、駅弁の蓋を取った。


「ちょっと余っちゃったかも。戻ってきたら、けっこう出払ってて。みんな街に遊びに行ってるのね」


 章一郎たち畸型の座員が居残り組であることを耶絵子は知っている。なぜ出掛けないのかと問うこともなく、自分が見聞した街の出来事を楽しそうに語ることもない。


「映画館があるとか、誰か言ってたな。それ目当てかな。耶絵子さん、看板を見掛けましたか」


「いいえ。駅に寄っただけよ。大きそうな商店街もあったけど、荷物抱えてたし、よく分からないわ」


 外出を控える章一郎に配慮したのか、それとも実際に興味がなかったのか、章一郎には読み取れなかった。耶絵子は若い女性らしく洋服が大好きで、以前は何着も買い込むこともあった。しかし、移動を繰り返すドサ廻りの一座で、大量の手持ち品は邪魔でしかない。加えて、新しいドレスを買っても、着飾って出掛ける機会はないに等しい。


「いつか、みんなで映画を観に行きましょう」


「えっ、僕らと」


 章一郎は意外な提案に驚いた。劇場は繁華街の中心にあって、いつも混み合っている。異形の者たちにとっては厄介な場所だ。騒ぎになることは必至で、極力避けたい。


「前に観たい映画があるって話してじゃない。それにね章ちゃん、映画館の中は舞台と違って暗いのよ。上映が始まると本当に真っ暗で、客席は誰が誰だか見分けがつかない」


 初めて聞く話しだった。実に興味深い。曲芸団の興行では客席も明るく、舞台の上から客の人相が分かる。暗闇になるのは、恐怖心を煽る霊交術の演目など一部の例外しかない。一方で、映画館は違うという。章一郎は感心した。帽子を深く被って、窓口を突破すれば、その奥には人目を気にしなくても良い自由な空間がある。   

 

「今度、福坊たちを誘って是非、出掛けてみましょう」


 そう快活に答えると、耶絵子も満足そうに微笑んだ。多少の危険を冒すことになるが、誰にも気付かれずに入り込める自信はある。好奇心と冒険心がくすぐられた。


「そう言えば、福坊にお弁当渡してないわ。一緒に居たんじゃないの」


「街に出掛けてしまったよ。作造に連れられて…いや、作造を連れて二人で遊びに行った」


 河原を歩く二人の後ろ姿を思い起こした。どれくらい時間が経ったのか、今ごろ街で何をしているのだろうか。章一郎は気に留めたが、耶絵子は気のない返事をして、特に心配している様子はなかった。


「美味しかったけど、駅弁ってパサパサね。汁物があったほうがいいわ」


 そう言うと耶絵子は空の弁当箱を章一郎から受け取り、去って行った。確かに、口を潤したい気分だ。お茶汲みの雑用は瑞穂がまめにこなすが、今日は給仕する姿が見えない。あの後、引き籠ったままだ。


 河原では良いことも悪いこともあった。残念な思いをしたに違いないが、章一郎にとっては軽い擦り傷だった。化け物呼ばわりされても、それは痛恨の一大事ではない。むしろ、別れ際の子供の笑顔が鮮やかに頭の中に残っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る