『幼い闖入者は狼男を怖れなかった』

 作造と福助がボートに辿り着いた。川に押し出すでもなく、舳先へさきの辺りを叩き、問答している。案の定、まともに使える代物ではなかったようだ。


「それに、悪い人ばかりでもない」 


 瑞穂が何を言いたいのか、章一郎は理解している。大きな街とは異なり、小さな町や村では人気者になることも多かった。舞台を見て感激した客、評判を聞きつけた人々は、散歩する狼男を大歓迎し、旨い飯をおごってくれる者もあった。


 橋桁では、ボートを持ち上げる荒技に福助が沸き立ち、飛び跳ねていた。作造は軽々と抱え、そして放り投げた。なんという怪力。ボートは川の中程に着水すると、傾き、ゆっくりと沈んで行く。大小二つの影は、それを見て笑っていた。共に動作が派手で、音がなくとも愉快な様子が伝わってくる。喜劇映画にも似た珍妙な光景だ。沈没するボートが川面から消え去って間もなく、大男と一寸法師は上流に向かって歩き出した。


「瑞穂も一緒に行きたかったんじゃないの」


「まさか。用事もないもの。名所もない、つまらなそうな街よ」


 章一郎に気兼ねしているのではなく、本気でそう思っているふうだった。石橋に向かう二人を眺めながら、隣に腰を下ろした。派手な舞台衣装とはまったく趣きが違う質素な普段着で、遠目には童女にも見える。地味な色のスカートの裾が、川下から吹き付ける風に揺れ、旗のように翻った。


「ちょっと心配だわ。福坊なんて一銭も持ってないんじゃないかしら」


「ひと回りしてすぐに帰ってくるさ。汽車が見たいだけなのかも知れない」


 章一郎は意味もなく、足元の雑草をむしり取って空中に投げた。細切れの葉が風に踊り、舞い戻る。土手からは下流一帯に群れなす工場が見渡せた。煙突の煙は線香のように控えめに立ち昇り、棚びくことなく空に溶ける。休憩時間の始まり、あるいは終わりを告げるものか、工場のサイレンが小さく響く。それが止み、静寂を取り戻したのも束の間、背後で声が聞こえた。振り向くと三人の子供が居た。


「あら可愛らしい。三つくらいかしら」


 瑞穂は母親のような柔和な眼差しで幼い闖入者ちんにゅうしゃを見つめた。楽しそうに喋りながら近付いてくる。幼女と、その兄姉だろうか。章一郎は咄嗟とっさに顔を伏せた。子供は苦手で、可能な限り遠ざけたい。容姿について雑言を吐く者は、無分別な大人と正直な子供だ。章一郎は帽子を深く被った。


 堤を下ってくる足音。声も近付く。瑞穂は微笑んで、手招きする。同い年くらいの子供と勘違いしているのか、三人は警戒する様子もなく、傍らにやって来た。うつむく章一郎を尻目に、瑞穂は幼女を抱き上げた。


「なんて人懐っこい子かしら。ほら、あなたも無愛想にしてないで、遊んであげて」


 瑞穂は器用に幼女を抱えたまま、素知らぬ振りをする章一郎に迫る。根負けして顔を上げると、都合が悪く、一番年上の姉と目が合った。悲鳴を上げたかったのは、章一郎のほうだ。しかし、予期していた嫌な展開にはならず、少女は少し興味深そうに見るだけだった。驚いて逃げ出すことも、戦慄して立ち尽くすこともない。


「誰も、あなたを怖がったりしない」


 重たい荷物を抱えるように、瑞穂は幼女を持ち上げて見せた。章一郎は勇気を奮って髪をでると、幼女は恥ずかしそうに笑った。差し出した手の剛毛を見ても、兄姉は無反応だった。毛深い髭面の男ではない。手の甲も、鼻や首筋を覆う体毛も明らかに異様で、初対面の者は揃って大きな衝撃を受ける。だが、目の前に居る子供たちは平然としている。何の苦もなく自分が受け入れられたように感じられ、章一郎は心を弾ませた。


「どこから来たの」


 男の子が聞き、瑞穂が答える。


「遠くの街よ。君たちの知らない遠くの街」


 子供をあやし、会話する親指姫の姿は新鮮だった。背丈は似たり寄ったりで釣り合いが取れないが、板に付いた接し方にも見える。学校の先生になりたいと、前に瑞穂が夢を語っていたのを思い出した。もし教壇に立てたなら、良い先生になるに違いない。上機嫌で章一郎が鼻歌を奏でると、瑞穂は調子を整え、本格的に歌い始めた。


 有名どころの唱歌だ。今どきの子供が知っているかどうか分からないが、兄姉が目を輝かせて聴く様子に章一郎は手ごたえを感じた。テノールとソプラノの混声。狼男に負けず劣らず、親指姫の歌声も伸びやかで美しかった。


 穏やかな陽光が、周囲を優しく包む。川下から吹き寄せる風は少し湿気を含んでいて、また心地良い。一輪の花もなく、所々に掘り返されたような跡のある味気ない堤は、それでも華やかな舞台のようだった。完璧で劇的な合唱が、小さな三人の聴衆をとりこにしている。章一郎は歌いながら陶酔した。瑞穂も恍惚とした表情で歌う。 


 唐突に訪れた幸福な時間は、唐突に終わった。嗚咽に近い、小さな悲鳴。堤の上に、狂人のように身悶えする女が居た。妊婦だった。子供たちの母親であることは、想像に難くなかった。

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