第三章
『狼男は賑やかな街の雑踏を恐れた』
手入れの行き届いた庭園のように風雅だった。草むらは緩やかな傾斜を経て、水際の
白昼、屋外で寛ぐ彼の姿を見掛けることは珍しかった。里から離れた野原や無人の海岸を散策することはあるが、普段は人目を避け、隠れて過ごす。この河原は大きな町から近く、向こう岸には行き交う人影もあった。目を凝らせば、毛むくじゃらの黒い顔が見えてしまうかも知れない。
轟音が響き、同時に数羽の鳥が飛び立った。汽車だ。上流には二本の橋が架かる。手前は鉄橋で、奥は石橋のようだ。いずれも市街地に向かって伸びている。汽車は川を越えると速度を落としたように見えた。駅舎は間近にあるのだろうか。ぼんやり考えていると、辺りが急に暗くなった。
「こんなところで寝てるとは、珍しいことがあるもんだ」
日光を遮る大きな影の主は作造だった。地べたから見上げると、その巨体は山脈のようだった。章一郎は半身を上げ、山はしゃがみ込んだ。
「いいお日柄で、つい昼寝してしまった。風も日差しも爽やかだ。やっぱり、みんなが言うように僕は野生児なのかもね」
「ついこないだまで真冬だったのに、もう春が近いって感じだな」
作造はそう呟いて、向こう岸を見渡した。家屋が連なり、街の中心部へと続いている。何の用事があるのか、通行人も多い。その先には、大きな街に相応しい喧騒が渦巻いているに違いない。章一郎は、小石を放り投げる。川面に小さな波紋が広がった。
「車の中には誰が居るんだい」
特別な関心があるわけではなかった。一座のトラックは土手裏の更地に置かれ、その周囲を仮設の小テントが囲んでいる。河原での野営は炊事洗濯に都合が良く、定番ではあったが、通常は辺鄙な場所が多く、今日のように大きな街に隣接していることは稀だった。
「誰か居たっけかな。親父さんは運転席で眠りこけてるし、あの様子じゃ、明日も移動はなさそうだ。
「頼りになる力持ちは買い出し組じゃないのかい」
章一郎は作造を見上げた。怪力の持ち主は荷物担ぎに加え、設営作業でも頼りになる主戦力だ。さらに用心棒としての役割も大きい。心優しい大男で、無闇に暴れることは決してないが、居るだけで大抵の者は緊張する。
「弁当を買いに行くとか言ってたような。名物の駅弁がどうのと昨日話してた、あれだよ」
「ああ思い出した。それは楽しみだな」
章一郎が嬉しそうに言うと、作造もにっこりと笑う。その背後に、二つの小さな影が見えた。瑞穂と福助である。
「ずいぶんと楽しそうじゃないか。お金でも拾ったのかい」
仲間が楽しそうに会話していると、いつも福助はそう言って割り込んでくる。十中八九、漫画本で覚えた台詞だろう。駆け寄る福助は、斜面で体勢を崩しかけたが、うまくバランスを取り、ついでとばかりに跳ね回った。痛めた足首はもう問題ないようだ。
「残ってるのは、わたしたちだけだったのね」
瑞穂は少し淋しげな口調で言った。やるせない現実を突きつける重い言葉だった。行楽に出掛けず、野営地で
「街に遊びに行くかい、章一郎。なんか面白いことあるかも知れない。そうだね、まずは、あそこにある舟で岸向こうに渡ろう」
酔狂な提案だった。福助が指差す方向を眺めると、橋桁のところにボートがあった。係留されているのではなく、打ち捨てられているように見える。章一郎は呆れて苦笑したが、作造は新しいオモチャを発見した子供のように目を輝かせていた。
「こりゃ、都合がいい。四人は乗れないだろうが、福坊なら大丈夫。一寸法師の船出だ」
冗談で言っているのか、本気なのか判らない。作造が足を掛けたら確実に転覆する。その前に、底に穴が開いているかも知れない。しかし、章一郎が制止するよりも早く、二人はボートに向かって歩き出していた。大きな影と小さな影が連れ立って、土手を下って行く。
「止めないの」
瑞穂は不安そうな面持ちで二つの影を見送っていた。無謀な船出を真剣に心配してるかのようだった。対照的に、章一郎は無表情で成り行きを見守り、そして呟いた。
「勝手にすればいいさ。僕は大きな街が嫌いだ。良い思い出なんかない」
「自分が道化師であっても一向に構わない。でも怪物にはされたくないし、なりたくもない。傷付け、傷付くのはごめんだ」
「あなたは怪物なんかじゃない」
瑞穂は語気を強めて言った。留置所に閉じ込められた章一郎を深川が引き取りに来た時、彼女も一緒だった。小さな身体を震わせて、瑞穂は駐在を叱りつけ、詫びの言葉を吐かせた。章一郎は、あれほど怒った親指姫を後にも先にも見たことがなかった。
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