『夜が更けて怪物たちの宴が始まる』
「気にしないで、召し上がって」
耶絵子は座員に握り飯を隈なく配り終えると、屋外で立ちすくむ奇術師のもとに向かった。章一郎は飯を頬張ることもなく、深刻な面持ちで、闇に浮かぶ二人の影を見詰める。それに気付いた道具方が吐き捨てた。
「懲りねえ男だ。毎度、このまま出ていっちまう勢いだが、
堂上が耶絵子に説教を喰らっているるようにも見える。そこに酒を買いに行った
「あんな野郎、適当に放っておけばよいものを。世話好きって言うか、耶絵子も妙に堂上のこと気に掛けてる感じもするな。まあ、二人とも怪物とは違うしな」
「怪物には僕も含まれるのかい」
冗談めかして章一郎は言った。道具方は失言に気付いたようで、慌てて言い訳した。
「ごめんよ、悪気はねえんだ。耶絵子こそ、いつか俺らを置いて出ていっちまうんじゃねえかと心配してるんだよ」
帰り道で早くも一杯引っかけたのか、酔っ払った巽が絡んでいた。堂上は困り顔で、耶絵子はその様子を愉快そうに見守る。舞台を降りた彼女は年相応の娘で、噂話を好み、揉め事に進んで首を突っ込む癖があった。
「耶絵子さんは女優に憧れていた。いや、いまでも大劇場の舞台に立つ夢を捨てていないかも知れない。曲芸団で一生を終える気はないだろう」
少し淋しげに、章一郎は呟く。屋外の三人が戻って来る気配はない。巽の酒を頂戴して、堂上も晩酌に付き合っているようだ。閉幕直後に集まっていた旦那衆やらの影はなく、夜の田舎町は三々五々、眠りに就き始めていた。
「そうだね。ドサ廻りの小さな曲芸団で
不意に福助が口を挟んだ。自嘲気味にドサ廻りという言葉を使う。幼い時分から一座で寝食を共にする福助は、町でも村でも、ひとつところに定住する普通の生活を望み、周囲にその思いを漏らすことが多かった。
「でも耶絵子さんは深川の親父さんに義理があんだろう。家出して
「それを言えば、堂上さんも同じようなもんだし、親父さんに恩義を感じていない人は居ないさ」
感慨深げに、福助は言った。入団の経緯はそれぞれだったが、筋の悪い興行社のように借金の
「章一郎も親父さんに拾われたんだっけ」
屈託のない様子で訊ねる福助に、章一郎は他人事のように語る。
「随分と昔の話だ。なにせ物心がつく前で、まったく覚えていない。当時から居た巽さんが話してくれたことがある」
「巽さんに詳しく聞いたりはしないのかい」
「問い詰めようと思ったこともあったけど、興味をなくした」
近くで握り飯を食べていた瑞穂が章一郎に視線を向けたが、思い改めたかように俯いた。この曲芸団で、明るい半生を送ってきた者は少ない。肉親に捨てられ、村を追われ、疎まれ、蔑まれる。一座の多くが暗い事情を背負っていて、身の上話は好まれない。
「巽さんといえば一番の古株だよね。この曲芸団を旗揚げする前から親父さんと一緒に仕事をしていたって聞く。そういや、昔話をすることは滅多にないな。先輩風を吹かせないのが、あの人らしいけどね」
「昔話を絶対にしないってわけじゃないんだ。質問すれば、色々と話してくれるよ。熊を飼おうとして失敗した話しとか、川が氾濫してテントが水没したとか、どれも落語みたいで面白い」
「大洪水のお話しは、わたしも聞いたことがあるわ」
伝説級の昔話について、瑞穂が少々の解説を加える。水没事故は曲芸団が創設された頃の逸話で、三日三晩、一座の全員が
「そう。曲芸団をつくった頃、なんで親父さんが風変わりな一座を始めたのか、その辺の話は巽さん、妙にはぐらかす感じだったな。もっとも今は興味ないけどね」
章一郎は念押しするように繰り返した。勘の良い者ならば、彼が自らの身上に関心を持ち、知りたがっていると察知したことだろう。福助はついで名前の由来について軽く訊ねたが、瑞穂が言葉を挟んで遮った。
「誰が付けたにしても、章一郎っていう名前は素敵だと思うわ。それだけで充分」
親指姫の優しい気遣いだった。この一座で身の上話を歓迎する者は居ない。章一郎は安堵して微笑んだ。深い毛に覆われた彼の表情を窺い知るのは至難の技だが、瑞穂はそれを読み取ることが出来る数少ない座員の一人だった。
作造と小人楽団が控室を出ると、入れ替わりに一升瓶を抱えた巽が騒々しく戻ってきた。どこで知り合ったのか、人相のよろしくない男を連れている。ここで宴会を始めるようだ。灯りの下で漫画本を手にしていた福助が追い払われ、瑞穂が酒の匂いに顔を顰める。大食いで呑兵衛の百貫女は酒席に加わる気満々だ。
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