『病身の侏儒に帰る故郷はあったのか』
舞台のある
消灯時間にはまだ早かったが、すでに眠りに就いている者もいた。小人楽団と作造は隅に身を寄せ、囁き声で何か話している。章一郎は足元に注意を払いながら自分の寝床を整え、静かに横たわった。隙間から冷たい風が入って来る。ひと際、寒い夜になりそうだ。
布団の数が増えるのに反比例して、宴会は盛り上がっているようだった。やがて酒と
裏の世界に放り出された者たちが集い、肩を寄せ合って暮らす異形の曲芸団。あらかじめ世間とは隔絶したところに存在し、巡業が地方紙の片隅を飾ったことは、これまで一度たりともなかった。
賭場から届く喚声の合間、章一郎は小さな
「また咳が止まらないのかい。ああ、しゃべらなくていい。話してはダメだ。夜になると出るね。昼間は何ともないのに」
章一郎は親指姫の背中を
「もう大丈夫、ありがとう」
瑞穂は少し顔をあげ、礼を言った。しかし、声には活気がなく、老女の
章一郎が異変に気付いたのは、数日前のことだった。トラックでの移動中、瑞穂は車内で突然喘ぎ、
何年か前、重い病気を患った
大病人や再起不能の芸人を養う余裕はない。自転車操業の興行団は慈善団体の対極にある。大怪我から道具方に転じた太夫元の深川は恵まれた例で、働けなくなった者の居場所はない。誰であれ、親しい座員が路頭に迷う姿など見たくなかった。病いに係る嫌な噂が流れるのも避けたい。章一郎は他の者に気付かれぬよう見舞い、瑞穂の身を案じていた。
「水を一杯汲んでくる」
忍び足で木戸を潜り、貯水槽に向かった。トラックの脇に置かれた大きな
「誰だい、そこに居るのは」
顔を出したのは、耶絵子と春子だった。二人は驚いた様子だったが、薄暗闇の奥に潜む者が章一郎と知ると、安堵したかのように微笑んだ。
「ちょっとびっくりさせないでよ。章ちゃんたら人が悪いわね。まるで泥棒みたいに音も立てないで。何かと思ったわ」
耶絵子は大きな目を見開いて言った。章一郎は強い口調で誰何したことを悔いた。泥棒とは言い得て妙で、瑞穂の不調を知られまいと、無意識に気配を消していた。二人に目撃され、なおも慌ててその場を取り繕う。
「少し喉が渇いてしまってね。それより、お二人さんこそ陰で何を話してたんでしょうか」
ごまかそうとして野暮なことを尋ねた。深い意味のない挨拶代わりで、女性の会話の中身に興味はなかった。
「あっちは騒々しくて落ち着けないし、寝るにはまだ早いし、外で
春子は穢らわしいものを睨むような目で控え室の方向を一瞥した。姐さんと呼ばれた耶絵子はタバコを指に挟み、難しい顔をしていた。喫煙する姿は珍しく、当人によれば寝る前と起きた時に
彼女たち女性陣はトラックの荷台を寝床にしていて、以前は瑞穂もその一員だったと記憶するが、定かではない。章一郎は自分の無関心ぶりに呆れる。幌で覆った荷台よりも薪ストーブがある大天幕のほうが心地良い、と聞いたような気もするが、これも曖昧だ。
章一郎は早く水を汲んで戻りたかったが、耶絵子と春子が立ち去る様子はなかった。
「連れてきた客人はまだ帰ってないのかな。まったく、巽さんの酒好きには困ったものだ」
「そう言う章ちゃんもお酒臭いわよ」
章一郎は驚いたが、耶絵子の戯けた表情を見て、それが冗談だと知った。優等生ぶる年下の男をからかう癖がある。今宵の彼女は機嫌が良いのか、饒舌だった。賭場が開帳するまで一緒に飲んでいたのかも知れない。
「お連れさんもまだ居るんじゃないかしら。手品師相手に賭け事するって度胸がいいんだか、間抜けなんだか。八百長で巻き上げられるのが関の山だけど、手持ちのお金は少なそうね」
「堂上さんと博奕するなんて金を捨てるようなもんだ。あの人、さっきは随分と興奮してたみたいだけども。仲間に手をあげるなんて、どうかしてる」
堂上の名前を出した瞬間、二人の表情が曇った。
「前はあれでも紳士的なところはあったのにね。今じゃすっかり偏屈で横柄な男に成り下がったわ」
耶絵子がそう吐き捨て、春子は納得したかのように
「見込み違いだったら大変なことだけど、章一郎さんなら無茶なことしないだろうから、相談するつもりでお話しするわ」
嫌な予感がした。章一郎の背筋に走った悪寒は、凛とした夜の空気とは関係ないはずだ。
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