『病身の侏儒に帰る故郷はあったのか』

 舞台のある大天幕おおテントは夜間、座員の寝床になる。客席のゴザの上に座布団を敷き、雑魚寝するのだ。備えの掛け布団はどれも薄く、冬場は辛い。新調したストーブもあるが、薪が手に入らないことも多い。今夜は、そんなハズレの日だった。遠くから百貫女のけたたましい笑い声が聞こえる。


 消灯時間にはまだ早かったが、すでに眠りに就いている者もいた。小人楽団と作造は隅に身を寄せ、囁き声で何か話している。章一郎は足元に注意を払いながら自分の寝床を整え、静かに横たわった。隙間から冷たい風が入って来る。ひと際、寒い夜になりそうだ。


 布団の数が増えるのに反比例して、宴会は盛り上がっているようだった。やがて酒とさかなが尽き、猥談に飽きると博奕ばくちが始まる。それは日常風景で、文句を言う者は居なかった。礼儀が重んじられる集団ではなく、守るべき節度もない。


 裏の世界に放り出された者たちが集い、肩を寄せ合って暮らす異形の曲芸団。あらかじめ世間とは隔絶したところに存在し、巡業が地方紙の片隅を飾ったことは、これまで一度たりともなかった。


 賭場から届く喚声の合間、章一郎は小さな片息かたいきを耳にした。天幕が軋む音でも、誰かの寝息でもない。咳だった。押し殺したような咳だった。木戸の近くから聴こえてくる。その咳が瑞穂のものであることを章一郎は察知した。音を立てないように近付くと、彼女は薄い布団の中で、猫のように背を丸めていた。小さな身体が、さらに小さく見える。


「また咳が止まらないのかい。ああ、しゃべらなくていい。話してはダメだ。夜になると出るね。昼間は何ともないのに」


 章一郎は親指姫の背中をさすった。おとといも酷く、同じように介抱したばかりだ。夜の寒さが彼女を苦しめているのかも知れない。自分の掛け布団を重ね、しばらくすると、咳は治った。目尻に浮かぶ涙は、微かな光に照らされ、蛍の光のように儚く、点滅して見えた。


「もう大丈夫、ありがとう」


 瑞穂は少し顔をあげ、礼を言った。しかし、声には活気がなく、老女のしわがれた声に似ていた。

 

章一郎が異変に気付いたのは、数日前のことだった。トラックでの移動中、瑞穂は車内で突然喘ぎ、溜飲りゅういんを吐き出すという失態を見せた。吐瀉物には鮮血が含まれていた。章一郎が手際よく対処し、騒ぎにならず済んだが、激しく動揺した。ドサ廻りの一座で、病気は厄介だった。


 何年か前、重い病気を患った侏儒しゅじゅが居た。巡業先の町医者もお手上げで、いよいよ重篤になると汽車賃を渡され、親元に送り返された。章一郎は不思議に思ったものだ。朦朧とする小人が独りで遠く離れた故郷に戻れるだろうか、温かく迎え入れてくれる親御さんは本当に居たのだろうか…

 

 大病人や再起不能の芸人を養う余裕はない。自転車操業の興行団は慈善団体の対極にある。大怪我から道具方に転じた太夫元の深川は恵まれた例で、働けなくなった者の居場所はない。誰であれ、親しい座員が路頭に迷う姿など見たくなかった。病いに係る嫌な噂が流れるのも避けたい。章一郎は他の者に気付かれぬよう見舞い、瑞穂の身を案じていた。


「水を一杯汲んでくる」


 忍び足で木戸を潜り、貯水槽に向かった。トラックの脇に置かれた大きなかめには、民家の井戸から勝手に頂戴した飲料水が湛えられ、夜の寒さの下、青白く煌めいている。章一郎が水を汲もうとして腰を屈めた時、トラックの向こう側から甲高い声が聞こえた。咄嗟に誰何すいかする。


「誰だい、そこに居るのは」


 顔を出したのは、耶絵子と春子だった。二人は驚いた様子だったが、薄暗闇の奥に潜む者が章一郎と知ると、安堵したかのように微笑んだ。


「ちょっとびっくりさせないでよ。章ちゃんたら人が悪いわね。まるで泥棒みたいに音も立てないで。何かと思ったわ」


 耶絵子は大きな目を見開いて言った。章一郎は強い口調で誰何したことを悔いた。泥棒とは言い得て妙で、瑞穂の不調を知られまいと、無意識に気配を消していた。二人に目撃され、なおも慌ててその場を取り繕う。


「少し喉が渇いてしまってね。それより、お二人さんこそ陰で何を話してたんでしょうか」


 ごまかそうとして野暮なことを尋ねた。深い意味のない挨拶代わりで、女性の会話の中身に興味はなかった。


「あっちは騒々しくて落ち着けないし、寝るにはまだ早いし、外でねえさんが一服してたんで駄弁ってたのよ」


 春子は穢らわしいものを睨むような目で控え室の方向を一瞥した。姐さんと呼ばれた耶絵子はタバコを指に挟み、難しい顔をしていた。喫煙する姿は珍しく、当人によれば寝る前と起きた時にたしなむ程度だという。


 彼女たち女性陣はトラックの荷台を寝床にしていて、以前は瑞穂もその一員だったと記憶するが、定かではない。章一郎は自分の無関心ぶりに呆れる。幌で覆った荷台よりも薪ストーブがある大天幕のほうが心地良い、と聞いたような気もするが、これも曖昧だ。


 章一郎は早く水を汲んで戻りたかったが、耶絵子と春子が立ち去る様子はなかった。


「連れてきた客人はまだ帰ってないのかな。まったく、巽さんの酒好きには困ったものだ」


「そう言う章ちゃんもお酒臭いわよ」


 章一郎は驚いたが、耶絵子の戯けた表情を見て、それが冗談だと知った。優等生ぶる年下の男をからかう癖がある。今宵の彼女は機嫌が良いのか、饒舌だった。賭場が開帳するまで一緒に飲んでいたのかも知れない。


「お連れさんもまだ居るんじゃないかしら。手品師相手に賭け事するって度胸がいいんだか、間抜けなんだか。八百長で巻き上げられるのが関の山だけど、手持ちのお金は少なそうね」


「堂上さんと博奕するなんて金を捨てるようなもんだ。あの人、さっきは随分と興奮してたみたいだけども。仲間に手をあげるなんて、どうかしてる」


 堂上の名前を出した瞬間、二人の表情が曇った。


「前はあれでも紳士的なところはあったのにね。今じゃすっかり偏屈で横柄な男に成り下がったわ」


 耶絵子がそう吐き捨て、春子は納得したかのようにうなずく。単なる悪口の前振りには思えなかった。背景にある根深い問題を鋭く察知した章一郎が、話しを促すと、春子が応じた。


「見込み違いだったら大変なことだけど、章一郎さんなら無茶なことしないだろうから、相談するつもりでお話しするわ」


 嫌な予感がした。章一郎の背筋に走った悪寒は、凛とした夜の空気とは関係ないはずだ。

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