第二章
『巨人の静かな怒りに奇術師は喚き散らす』
最後の客が木戸を抜けるのを確認すると、章一郎たちは床に散らばる紙屑や食べかすを拾い集めた。先ほどまでの喧騒と熱狂が幻であったかのように消えている。照明を落とし、狼男は座員たちが談笑する控室の小さな天幕に戻った。その外側には、親に付き添われた子供や物好きな旦那衆が集まり、出演者の素顔を見ようと、扉の隙間から交互に覗き見ている。
中では、百貫女と骸骨男の口喧嘩が早くも始まっていた。二人は実生活でも夫婦だったが、口論でしか愛情を表現できないといった類いの者たちで、今晩の論争も芝居の際のささいな間違いに端を発していた。
閉幕後の安堵と解放感に満ちたひと時を楽しむ座員の多くは、もはや日課に等しい夫婦喧嘩に気に掛ける様子もなく、各々の会話に花を咲かせる。
「早く着替えたほうがいいんじゃないか。大切なドレスが汚れてしまうよ」
章一郎は、テーブルに腰掛けて化粧を落としている瑞穂に優しく忠告した。二人は一緒に居ることが多いわけではなかったが、あらぬ噂を一部から囁かれる程度に親しかった。ともに聡明で物腰も柔らかく、低俗な話題を好むほかの座員とは異なった雰囲気を持っていた。
「また今日も低い音の弦が弛んで困ったわ。修繕に出すわけにもいかないし、わたしの二番目に得意な曲が上手く弾けない」
「留め具が壊れてるのか。新品を見つけるのは難しいだろうけど、どこかの町に直せる職人がきっと居るよ」
テーブルの向こう端では、堂上と葦澤がカードに興じていた。正常な身体を持つこの男たちは、深川曲芸団にあっては逆に異端視される存在でもあった。
「堂上さん。
混雑する控室の中央で賭け事に熱中する奇術師に、章一郎は尋ねた。堂上は札をめくりながら狼男を
「酒がねえって言って出て行ったぞ。こんな田舎町で夜中に開いている酒屋があるもんかね。それと、耶絵子はお前らの飯を作っている最中だ」
無愛想な返事に、
章一郎は堂上から離れ、狭い控室の中を縫って歩く。大男の作造は地べたに座り込み、小人楽団に囲まれて何か語っていた。小さな三つの頭より高いところに巨人の肩がある。枯れ木と肥えた牛の
「
章一郎は顔を覗き込むようにして聞いた。
「けっこう長い間、水に浸けてたんだけど、まだちょっと痛む。明日に差し支えなければ良いなあ。なんとも言えない。ひと晩休んでみないと」
「福坊はスターだからね。出ないとなると、がっかりするお客さんも多いだろうな。でも悪化したら大変だ。今夜は早めに横になって養生したほうがいい」
一寸法師は軽く頷き、再び漫画本に目を落とした。今宵の曲芸で杭から勢いよく飛び降りた際、足首を捻ってしまったらしい。サーカスに事故は付きもので、危険な曲芸の少ない当一座でも小さな怪我は絶えず、捻挫程度の負傷では心に留める仲間も居なかった。
章一郎は同い年の
「さあ夕飯にしましょう。今日はお結び。一人三つまでよ」
大きなザルを抱えた耶絵子が控室に入ってきた。
「握り飯とはこれまた豪華な晩餐だな。雑炊よりも何倍かましだ。しかしよお、お嬢さんが飯炊きまでする必要はないだろ。髪の毛も濡れたままじゃないか。専属の
顔を
「ここで親父さんの悪口まで言うこたあないだろう。何かにつけちゃ文句垂れやがって。貴様なんぞ居なくたって別段、この一座は不自由しないんだぞ。出てきたいなら、そうすればいい。子供相手に手品でもしてろ」
堂上はにわかに気色ばみ、カードを床に叩き付けると激しく椅子を蹴り倒して立ち上がった。
「黙れ、この野郎。てめえの立場をよく弁えて物を言え」
「うっせえな、へぼ手品師。ハゲにするぞ」
殴り掛かる勢いで振り上げられた堂上の手を作造がさっと
「畜生、覚えてやがれ」
悪態をつくも、怪力の持ち主の前ではなす術がなかった。百貫女は堂上の醜態を見て大声で笑い、小人楽団は口笛を吹いて
しかし、章一郎は違った。深川は畸型たちを我が子のように可愛がるが、一方でいわゆる健常者の座員を差別することはなかった。ただ、太夫元と奇術師の二人には労使を越える関係がなく、互いに不信感を抱いているように見える時もあった。章一郎には、はずみで飛び出た暴言とは思えない。
堂上は根拠のない自信家で、独立しても一人前の奇術師として通用すると考えている節があり、傲慢な態度はその
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