『寝静まる洋館に夜の可憐な華が咲く』

「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。みんな無事で、本当に良かった」


 双子の妹役、極夜きょくやが最初に飛び付いた相手は、狼男だった。章一郎は驚き、どう返答するれば良いのか分からずに、戸惑う。その光景を白夜びゃくやが優しい目で見詰めた。


 一行が洋館に辿り着いた時、柱時計の針は午前三時を少し回ったところだった。福助が裏手にある部屋の窓から侵入し、玄関の鍵を開けると、白夜は自分の寝室に駆け込んだ。物音がして、間もなく三人の娘が降りて来た。そして詳しい経緯を聞くよりも早く、章一郎の姿を認めた極夜が抱き付いて来たのだ。


 小さな肩を震わせて、良かった、良かったと何度も言う。ほかの二人の娘は、深夜の訪問客と対面して腰を抜かし、怯えた。無理もない。毛むくじゃらの青年を筆頭に、揃いも揃って異様だ。年頃の娘として相応の態度とも言えるだろう。


 白夜はその娘たちに、支配人が海に転落して行方知れずになったことを手短に話した。彼女らが眠れる間に、事態は激動していたのである。存亡の危機ではない。副島率いる歌劇団は事実上、瓦解した。更に白夜は極夜の手を取り、最も重要であろう事柄について語った。


「そうなんだ。それで、みんな気持ち悪がったりしなかったの」


 双子の姉役が首を振る。二人にとって最大の秘密、性別のことだ。白夜によると歌劇団の娘たちは正体を知っていて、自然に接してくれるが、新入りの中には露骨に嫌悪感を示し、早々に辞めた子も居たという。


 告白の顛末を聞いて、極夜は安堵したような表情を見せた。男としての将来や普通の生活を諦め、開き直っていたとは言え、正体を隠し通すしことに疲れていたのかも知れない。安らかに微笑む。次いで章一郎らのほうを向くと、凛々しい口調で言った。


「この場所から早く離れましょう。下働きの男は、海に落ちただけなんですよね。戻って来るとしたら、ここしかない。乱暴で危険な男です」


 もっともな懸念だ。敷地内に三輪トラックはなく、先回りされなかったことに章一郎は安心していたが、あの番人は海から這い出て、こちらに向かっている最中かも知れない。怪力の巨人が控えていると言っても、徒党を組み、凶器を携えている恐れがある。だが、どこに逃げれば良いのか…


「復讐の鬼が来たるって寸法か。だが、お嬢さん方、ちょっと待ってはくれないか。長老様はこの通り、寝ちまってる。みんな一睡もしてなくて、夜通し歩って来たんだ」


 柏原の訴えも正当なものだった。車内で熟睡していたが、たつみは座り込んだ後、横になってそのまま昏睡している。二階の団員専用室に担いで運ぶ作造を見送ると、彼は娘たちに風呂を沸かすよう指示した。


「白夜ちゃんも海に落っこちたんだ。中の服も濡れたまんまだし、温まったほうが良い。それに、俺らもひとっ風呂浴びてえ。自分でも臭くて堪らん」


 その通りだった。温泉に浸かって以降、二週間前後も捕囚たちは風呂に入っていない。章一郎は湯浴みの代わりに海を泳ぎ回ったが、磯臭く、体毛が部分的に凝り固まっいて、気色が悪い。


 福助は食糧を漁って、その後、庭に出て歩哨。作造は風呂用の薪をべて、その後、玄関先で見張り番。小人楽団のリーダーは的確に指令したが、逃げる先と軍資金の件で詰まった。


「逃げるにしても一文なしじゃ、先々できゅうする」


 すると極夜が、金目の物ならあると言って自室に戻り、写真機を手にして戻って来た。小型だが、少女が持つにしては大きい…章一郎は左手が燃えた日の光景を思い出した。さっき白夜は証拠の写真云々と話していた。あの時、木の幹に隠れながら撮影していたのが、極夜だったのだ。


「そりゃまた、獨逸ドイツ製のえらい高いもんだ。大人だって滅多に買えねえ」


 有名な会社の高級品らしい。極夜は副島の秘書役を務める代わりに、おねだりし、色々な貴重品を貰い受けていた模様だ。柏原は、その写真機に興味津々で、写す真似をしてみたり、喫緊の課題を忘れている。そして曲芸団一同が土蔵時代に買収工作で盛り上がったことも忘れている。


 金なら決して少なくない額がある。夜鳴き蕎麦が食いたくて地団駄を踏んだ時とは違うのだ。同時に、章一郎は土蔵にもう一人居ることを思い出した。脱出するのは六人一緒。劇的なことが重なったからとは言い訳できない。恥ずかしながら、今の今まで忘れていた。


「おーい、別当べっとう君。居るかーい」


 奇妙にも、土蔵の大扉は開いていた。奇妙にも、臭気が懐かしく感じられる。救出隊が分け入ると、奥でごそごそと蠢く音がした。朽ちた箪笥の影に、別当青年が居た。


「皆さん、よくご無事で」


 寝ているところを叩き起こす恰好になってしまったが、別当青年は元囚人たちの生還に驚き、喜んだ。特に章一郎が五体満足で戻って来たことに感激していた。


「正面の扉が開いてたけど、逃げなかったんだ」


「逃げ出そうとも思ったけど、いざとなったら、怖くなって。行く宛てもないし、どうしたものかと…」


 腹が空き、宵に抜け出して洋館を覗きに行ったら人が居て、慌てて土蔵に戻ったのだという。その前、夕方には見知らぬ男女が押し入って来て、ひと騒動あったとも明かす。必死になって隠れ、息を潜めた。集団を率いる偉そうな女が金切り声を上げて、見付かったら殺されるのではないかと震えた…別当青年は切々と語った。怖い思いをしたようだ。


「あれ、おいらの鞄が何処にもないぞ」


 愛用のずだ袋が消えていた。怪しい集団が持ち去ったのか。小道具一式と汚れたふんどししか入っていない、と言って福助は首を傾げる。章一郎は慌てて自分の鞄をベッドの下から引っ張り出し、中身を確認して愕然とした。稼いだ金が見当たらない。全部、盗られている…


「あ、お金なら別のとこに隠してあるよ」


 それを早く言って欲しい。銅貨も紙幣も全て福助が土蔵の外に隠したという。堂上どうがみ対策だった。移動を命じられた場合に備えての秘匿。隙を見て手品師が掠め取るのを防ぐ為の措置だ。今さら奪われても惜しくはないが、堂上の手に渡るのだけは許せない。土蔵の芸人全員の一致した意見だったという。


 隠し財産は、植え込みの石の下にあった。布に包まれて、二人の入前いりまえが一緒くたになっていた。洋館の食堂で足し算をすると、章一郎の想像より少なかったが、逃避行には充分な額だった。

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