『夜鳴き蕎麦のミュージカル』
福助は
拗ねているのは、土蔵から連行された後、章一郎が白夜と密会を重ねた件に関してだ。懲罰房と聞き、残された者は怪我人の身を案じた。福助に至っては、親友が拷問を受けて腕を切り落とされたのではないか、と不安を募らせたという。ところが独房は見晴らしも良く、白雪姫と一緒に歌を歌っていた…余計な心配して損をしたと言うことらしい。明らかに僻み、妬んでいる。
「遂に食いもん見付けたぞ。あれだ、あれ。屋台だよ」
その一寸法師が小躍りして騒ぐ。寂しい林の道を抜けた先、住宅街に接する交叉点に、動く人影と荷車があった。夜鳴き
「お金とか、持ってないんだよね」
白夜が持っていなければ、終了である。流罪の囚人に所持金があるはずもなかった。これが死罪なら、三途の川の渡し賃くらい懐ろにあったかも知れない。一文無しなのに、作造は諦めきれないようだ。
百鬼夜行とでも勘違いしたのか、夜鳴き蕎麦の主人は接近する大男に驚き、
「俺が芸を見せるから。そしたら、蕎麦食わして貰えないだろうか」
面白いことを言い出した。大道芸の投げ銭を思い出したのか、この場で主人に怪力芸を披露するという。曲芸団の数ある演目でも安定度抜群の万人受けする芸だ。迫力満点で、故知れぬ爽快感も味わえる。しかし、こんな夜中にいきなり芸を見せられて、蕎麦屋の主人に何の得があるのか。
「今から、向こうの林に行って太い枝を探してくる。少し待っててくれないか」
段取りも悪い。主人は本日の仕事を終えて、帰り支度の最中だ。面倒極まりないといった困り顔をする。大男はさらに哀願したが、きっぱりと断られた。無念である。作造が肩を落として引き下がると、今度は
「三丁ぶんくらい残ってるって」
でっかいのが一丁で、ほかの五人が二丁を分け合う。配分はともかく、その前に、支払う金がない。物々交換でもするのか。金目の品なら、いま羽織っている外套が高級そうだが、蕎麦三丁と引き換えでは損をしかねない。
「お代は後で考えてくれれば良いから。ねえ、ご主人さん、取り敢えず、わたしたちの歌を聴いてみて」
怪力芸がダメなら、次は歌である。そして、複数形…章一郎と二人で歌い、品定めして貰うと言う。
すらりとした手足を伸ばし、ゆっくりと大きく動かして高らかに歌う。透明感に溢れ、温もりもある神々しいソプラノ。彼女の歌う姿を章一郎が見るのは、これが初めてだった。決して派手ではなく、御神楽の舞いにも似て、荘厳で気高い。合唱する章一郎も含め、誰もが見惚れた。
蕎麦屋の主人は感嘆し、もう一曲と懇願するや暖簾を掛け直し、炭に火を点けた。
いきなり歌うのは不慣れだった。章一郎が喉を整えて、小さく発声しているのを見て、白夜は独りで歌い出した。二階の窓から屋根裏部屋に届けられた
最初の曲とは異なって振り付けも大人しく、静かに滔々と歌う。周りのすべてのものが静止し、消え去り、彼女の細やかな肢体と甘美な声だけが存在しているかのようだった。仙女か天女か。夜の
「
一拍間を
蕎麦の茹で上がる時間を待って、もう一曲歌う。不思議な合唱だ。章一郎が十八番とする『
「三丁ぶんしか無くて、済まねえ。
立場が逆転していた。屋台の主人はいたく感銘を受けたようで、気前よく汁蕎麦を振る舞った。眠気を覚まし、疲れも癒す、真夜中の歌と舞い。仕事の終わりに、自分独りに向けた華やかな舞台が待っているとは夢にも思っていなかったろう。
喜ぶ観客の顔を見るのは楽しい。章一郎は久しく忘れていた感覚を思い出した。客前で歌ったのはいつ以来か。曲芸団の公演で、誰のどの演目であっても、観客が沸き、その歓声を耳することは嬉しい。
「とんでもねえことを知っちまったようだ」
汁蕎麦を交互に啜りながら、柏原は
「お嬢ちゃんたち双子は、つまりカストラートなんだよ」
また難しいことを
「声変わりって分かるだろ。その前に手術しちまうんだ。小っちゃい男の子にな。すると男の子は何年経ってもソプラノの綺麗な声が出せるんだ」
双子の白夜と極夜が、孤児院に居た時に合唱団で活動し、讃美歌を覚えたという話しは、章一郎も屋根裏部屋で聞いた。聖歌隊は年端のいかない少年だけで構成されるらしい。
「酷い話しさ。何も知らない男の子から手術で大事な
章一郎には腑に落ちるところがあった。白夜のソプラノは、聴き慣れた
「伝説って、どういうことなんでしょう」
「禁止されたんだ。もう随分前、十八世紀の末とか、そんな昔にな。危険な手術で大勢の子供が亡くなったらしい。カストラートはオペラの花形で、貴族にも持て囃されたんだ。金持ちになれるってんで、貧しい農村の親が息子に無茶な手術を受けさせて、悲劇が続いた。そう簡単じゃないのにな」
白夜は驚きを隠せないようで、大きな目を更に大きく開けて、聞き入っている。カストラートになる為の絶対条件は、幼い男児に歌唱法を叩き込み、手術の前にひと角の歌い手に仕上げることだという。実力を兼ね備えた、極少数の少年だけが、カストラートとして大成した。
「とんでもねえことだ」
柏原は繰り返す。そして、自分と同じ
「だが、二百年とかそれ以上前に禁止されて、絶滅したんだよ。今この地球上に存在するカストラートは、お嬢ちゃんと妹さん、その二人しか居ないんだ」
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