『夜鳴き蕎麦のミュージカル』

 福助はねたり、はしゃいだりと忙しい。白夜の性別を知って、内心でどう受け止めているのか計り知れないが、概ね上機嫌のようだ。事故処理の最中、どっちでも構わない、といった意味合いの文句を呟いていた。空耳の可能性もあり、いずれにしろ面倒なので章一郎は聞かなかったことにした。


 拗ねているのは、土蔵から連行された後、章一郎が白夜と密会を重ねた件に関してだ。懲罰房と聞き、残された者は怪我人の身を案じた。福助に至っては、親友が拷問を受けて腕を切り落とされたのではないか、と不安を募らせたという。ところが独房は見晴らしも良く、白雪姫と一緒に歌を歌っていた…余計な心配して損をしたと言うことらしい。明らかに僻み、妬んでいる。


「遂に食いもん見付けたぞ。あれだ、あれ。屋台だよ」


 その一寸法師が小躍りして騒ぐ。寂しい林の道を抜けた先、住宅街に接する交叉点に、動く人影と荷車があった。夜鳴き蕎麦そば。しかし、近付くと客の姿もなく、主人は片付けをしているようだった。夜も更けて、店仕舞いだ。どの道、注文は無理だった。  


「お金とか、持ってないんだよね」


 白夜が持っていなければ、終了である。流罪の囚人に所持金があるはずもなかった。これが死罪なら、三途の川の渡し賃くらい懐ろにあったかも知れない。一文無しなのに、作造は諦めきれないようだ。

 

 百鬼夜行とでも勘違いしたのか、夜鳴き蕎麦の主人は接近する大男に驚き、後退あとずさりした。背後の一団を見て、更に二歩三歩と奥へ引っ込む。作造が丁重に話し掛け、人間だと理解したようだが、怯えている。


「俺が芸を見せるから。そしたら、蕎麦食わして貰えないだろうか」


 面白いことを言い出した。大道芸の投げ銭を思い出したのか、この場で主人に怪力芸を披露するという。曲芸団の数ある演目でも安定度抜群の万人受けする芸だ。迫力満点で、故知れぬ爽快感も味わえる。しかし、こんな夜中にいきなり芸を見せられて、蕎麦屋の主人に何の得があるのか。


「今から、向こうの林に行って太い枝を探してくる。少し待っててくれないか」


 段取りも悪い。主人は本日の仕事を終えて、帰り支度の最中だ。面倒極まりないといった困り顔をする。大男はさらに哀願したが、きっぱりと断られた。無念である。作造が肩を落として引き下がると、今度は白夜びゃくやが交渉に赴いた。残りの蕎麦があるのか、確認しているようだ。


「三丁ぶんくらい残ってるって」


 でっかいのが一丁で、ほかの五人が二丁を分け合う。配分はともかく、その前に、支払う金がない。物々交換でもするのか。金目の品なら、いま羽織っている外套が高級そうだが、蕎麦三丁と引き換えでは損をしかねない。


「お代は後で考えてくれれば良いから。ねえ、ご主人さん、取り敢えず、わたしたちの歌を聴いてみて」


 怪力芸がダメなら、次は歌である。そして、複数形…章一郎と二人で歌い、品定めして貰うと言う。御捻おひねりと一緒だ。お座敷では底抜けに陽気な大衆歌が持て囃されたが、白夜は初めて二人が合唱した曲を歌いたいと所望する。『アメイジング・グレイス』だ。


 人気ひとけのない深夜の交叉点、夜鳴き蕎麦の屋台の前に、天使が降臨した。


 すらりとした手足を伸ばし、ゆっくりと大きく動かして高らかに歌う。透明感に溢れ、温もりもある神々しいソプラノ。彼女の歌う姿を章一郎が見るのは、これが初めてだった。決して派手ではなく、御神楽の舞いにも似て、荘厳で気高い。合唱する章一郎も含め、誰もが見惚れた。


 蕎麦屋の主人は感嘆し、もう一曲と懇願するや暖簾を掛け直し、炭に火を点けた。


 いきなり歌うのは不慣れだった。章一郎が喉を整えて、小さく発声しているのを見て、白夜は独りで歌い出した。二階の窓から屋根裏部屋に届けられた獨逸ドイツ語の歌『シュティレ・ナハト』である。


 最初の曲とは異なって振り付けも大人しく、静かに滔々と歌う。周りのすべてのものが静止し、消え去り、彼女の細やかな肢体と甘美な声だけが存在しているかのようだった。仙女か天女か。夜のとばりを翻して顕現した蠱惑の妖精が、呼吸さえも忘れて聴き入る者の魂を揺さぶった。


魂消たまげたな。初めて聴いた曲だが、素晴らしい。旋律が特徴的で、心に響く」


 一拍間をいて、今度は柏原が激賞した。余り褒めることをしない辛口の批評家が絶賛して、白夜を質問攻めにする。これまでは矢張り歌って踊る子供劇団のお嬢ちゃん程度に思っていたのか、表情が一変している。度肝を抜かれたといった有り様だ。蕎麦屋の主人は本格的な調理に入った。 


 蕎麦の茹で上がる時間を待って、もう一曲歌う。不思議な合唱だ。章一郎が十八番とする『埴生はにゅうの宿』を一節歌う。次に白夜が原曲を英語の歌詞で歌う。テノールとソプラノが織り成す一幕の舞台劇。それは和歌の懸け歌と返し歌のようでもあった。

 

「三丁ぶんしか無くて、済まねえ。つゆは多めにあるから、良かったら飲み干してくれ。腹はそんな膨れねえが、身体がほかほかする」


 立場が逆転していた。屋台の主人はいたく感銘を受けたようで、気前よく汁蕎麦を振る舞った。眠気を覚まし、疲れも癒す、真夜中の歌と舞い。仕事の終わりに、自分独りに向けた華やかな舞台が待っているとは夢にも思っていなかったろう。


 喜ぶ観客の顔を見るのは楽しい。章一郎は久しく忘れていた感覚を思い出した。客前で歌ったのはいつ以来か。曲芸団の公演で、誰のどの演目であっても、観客が沸き、その歓声を耳することは嬉しい。

 

「とんでもねえことを知っちまったようだ」


 汁蕎麦を交互に啜りながら、柏原は儼乎げんこたる口振りで切り出した。二番目に歌った獨逸語の曲は讃美歌だった。白夜に尋ねると、孤児院時代に聖歌隊に入っていて、そこで習ったという。毛色の変わった子供の合唱団。発声訓練も受け、歌い方の基礎も学んだ。


「お嬢ちゃんたち双子は、つまりカストラートなんだよ」


 また難しいことをのたまう。楽団リーダーの隣席で、白夜はきょとんとしている。カストラートとは伊太利亞イタリア語で、その昔、羅馬ローマ拿破里ナポリなどで持て囃された歌手のことだと言う。ただの歌い手ではない。去勢された男性歌手に限られ、或る種の称号に等しい…


「声変わりって分かるだろ。その前に手術しちまうんだ。小っちゃい男の子にな。すると男の子は何年経ってもソプラノの綺麗な声が出せるんだ」


 双子の白夜と極夜が、孤児院に居た時に合唱団で活動し、讃美歌を覚えたという話しは、章一郎も屋根裏部屋で聞いた。聖歌隊は年端のいかない少年だけで構成されるらしい。


「酷い話しさ。何も知らない男の子から手術で大事なふくろを取り去っちまう。人工的に、人の手で作り上げた特殊な歌手ってとこだ。その歌声は、まあ伝説では、女声のソプラノとは違って、妖艶で神秘的だったと伝わっている」


 章一郎には腑に落ちるところがあった。白夜のソプラノは、聴き慣れた瑞穂みずほのものとも、ほかの女性の高い声とも異なる。独特だ。何処に違いが潜んでるのか不明で、大雑把な言い方にせよ、神秘的という表現は的を射ていた。


「伝説って、どういうことなんでしょう」


「禁止されたんだ。もう随分前、十八世紀の末とか、そんな昔にな。危険な手術で大勢の子供が亡くなったらしい。カストラートはオペラの花形で、貴族にも持て囃されたんだ。金持ちになれるってんで、貧しい農村の親が息子に無茶な手術を受けさせて、悲劇が続いた。そう簡単じゃないのにな」


 白夜は驚きを隠せないようで、大きな目を更に大きく開けて、聞き入っている。カストラートになる為の絶対条件は、幼い男児に歌唱法を叩き込み、手術の前にひと角の歌い手に仕上げることだという。実力を兼ね備えた、極少数の少年だけが、カストラートとして大成した。


「とんでもねえことだ」

  

 柏原は繰り返す。そして、自分と同じ侏儒しゅじゅは大して珍しくもなく、狼男も知られていないだけで、世界中探せば何人も居る。何万人か何十万人に一人の割合であっても、畸型の者は世にもまれとは言えない。


「だが、二百年とかそれ以上前に禁止されて、絶滅したんだよ。今この地球上に存在するカストラートは、お嬢ちゃんと妹さん、その二人しか居ないんだ」

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