第四章
『山中の九十九折で狼男の牙が光った』
「とても懐かしい場所だ」
目的地は有名な温泉街だ。江戸時代から続く人気の温泉街で、お偉いさんから庶民まで、こぞって訪れる。帝都からも遠くなく、春先は花見客、夏場は海水浴客で賑わうという。
時が流れても変わらないもがある、と章一郎は思った。蕩けるような湯も風光明媚な海辺も、思い出話と変わらずに残ってるはずだ。泊まる予定の旅館も老舗で、昔ながらの高楼から美しい朝日が望めるという。いつもの巡業とは趣きがだいぶ異なって、行楽地に向かう気分だ。実際、章一郎も期待に胸を膨らませ、心を躍らせている者の一人だった。
「花街ってのがあって、これがまた粋なところで…」
昨夜も
また荷台が大きく傾く。山道に入ってから振動が絶え間なく続き、
唸るエンジン音に掻き消され、気付くのが遅れた。二度と耳にしたくない音。瑞穂の咳だ。荷台の一番奥、女性陣の輪の中にいる。よろめきながら、やっと奥に到達すると、親指姫は顔面蒼白で、ぐったりしていた。隣に座る春子も青ざめ、ひどく怯えた様子だ。
「章一郎さん、困ったわ。大変なの」
春子の膝を枕にした瑞穂は、微かな呻き声を上げ、また咳き込む。前の野営地で彼女が咳で苦しむことはなかった。生薬に
「車酔いなら、じきに落ち着くと思ったのだけど。さっき少し吐いたのよ。それに血が混ざっていて」
震える声で春子は言った。章一郎が強く呼び掛けかけると、耶絵子も事態を知って介護に加わった。たちまち幌の中は騒然となった。曲がりくねった峠の登り道で、車体も動揺していた。誰がか叫ぶ。
「今すぐ、止めるわけにはいかんのか」
のろまのように遅い速度で登坂しているが、エンジンは更に甲高い悲鳴を上げ、騒ぎは運転席に届かない。章一郎は非常事態を伝えるべく、前方の鉄板を叩いた。繰り返し、乱暴に叩くが、応答はない。耶絵子が幌の布を開けて、叫ぶ。かなり標高の高い箇所を進んでいるのか、吹き込む風は冷たかった。
ややあって、トラックは漸く停止した。幌の中を覗き込む太夫元の深川に、耶絵子が状況を伝える。展望台を備えた休憩所だった。小さな売店は、その昔ここが峠の茶屋だった名残か。作造が瑞穂を抱え、先頭を切ってトラックを降りた。
「気分を悪くした程度じゃないわ」
春子はうっすらと涙を浮かべ、なおも顔色を失っている。そして休憩所の椅子に横たえられた瑞穂は、それ以上に深刻で、咳が治る気配もない。座員は不安げに見守るだけで、どうすれば良いのか誰も分からなかった。
「麓に町に引き返して、お医者さんに診てもらいましょう」
沈黙を破ったのは、章一郎だった。山道に入る手前に小さな町があった。田舎町だが農村よりは開けていて、診療所のひとつくらいはあるかも知れなかった。
「あの山道を戻るのは辛いかも知れない。わたしだって少し車酔いするくらいだもの」
耶絵子の言葉に何人かが頷いた。振動の激しい
「すぐに引き返せばよかったんだ。何度も、運転席の後ろを叩いたんですよ。それでも止まってくれなかった」
棘のある口調で章一郎は言った。苛立っている。まるで深川が気付いていながら停車しなかったとでも言いたい口ぶりだった。珍しく声を尖らす章一郎に、一同は驚く。いつも父親のように慕う太夫元に対し、狼男はかつて一度も牙を剥いたことがなく、牙の先すら見せなかった。
深川は言葉を返さない。思案顔で、黙ったままだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます