第四章

『山中の九十九折で狼男の牙が光った』

「とても懐かしい場所だ」


 傴僂せむしの曲乗り芸人は同じ台詞を何度となく言った。もう十何年も前の思い出話で、当地はすっかり様変わりしているかも知れない。それでも構わず、美味い焼き魚を食っただの、大きな演劇場があっただのと自慢げに語り、座員たちは目を輝かせて熱心に聞く。トラック荷台の幌の中は、興奮状態にあった。


 目的地は有名な温泉街だ。江戸時代から続く人気の温泉街で、お偉いさんから庶民まで、こぞって訪れる。帝都からも遠くなく、春先は花見客、夏場は海水浴客で賑わうという。


 時が流れても変わらないもがある、と章一郎は思った。蕩けるような湯も風光明媚な海辺も、思い出話と変わらずに残ってるはずだ。泊まる予定の旅館も老舗で、昔ながらの高楼から美しい朝日が望めるという。いつもの巡業とは趣きがだいぶ異なって、行楽地に向かう気分だ。実際、章一郎も期待に胸を膨らませ、心を躍らせている者の一人だった。


「花街ってのがあって、これがまた粋なところで…」


 小噺こばなしの締め括りは毎回同じだった。温泉街の人気の秘密は、見目麗しい芸妓げいこが集まる花街にあるという。座員の中にその辺りの事情に明るい者は居ない。男どもは目を見張って、話しに聞き入る。


 昨夜もたつみは野営地の片隅で滔々と語った。今は女性陣に配慮して、控えめな調子だ。何度聞かれされても、章一郎には花街がどんな場所なのか、想像つかない。江戸の吉原が出てくる小説を読んだことがあったが、筋立ては荒唐無稽だった。それは長老の空想で、本当はありもしないのではないか、とさえ思う。


 また荷台が大きく傾く。山道に入ってから振動が絶え間なく続き、九十九折つづらおりの峠に差し掛かると、いよいよ激しくなった。章一郎が異変を察知したのは、そんな時だった。

 

 唸るエンジン音に掻き消され、気付くのが遅れた。二度と耳にしたくない音。瑞穂の咳だ。荷台の一番奥、女性陣の輪の中にいる。よろめきながら、やっと奥に到達すると、親指姫は顔面蒼白で、ぐったりしていた。隣に座る春子も青ざめ、ひどく怯えた様子だ。


「章一郎さん、困ったわ。大変なの」


 春子の膝を枕にした瑞穂は、微かな呻き声を上げ、また咳き込む。前の野営地で彼女が咳で苦しむことはなかった。生薬に覿面てきめんの効果があると信じ、章一郎は安心しきっていたのだ。


「車酔いなら、じきに落ち着くと思ったのだけど。さっき少し吐いたのよ。それに血が混ざっていて」


 震える声で春子は言った。章一郎が強く呼び掛けかけると、耶絵子も事態を知って介護に加わった。たちまち幌の中は騒然となった。曲がりくねった峠の登り道で、車体も動揺していた。誰がか叫ぶ。 


「今すぐ、止めるわけにはいかんのか」


 のろまのように遅い速度で登坂しているが、エンジンは更に甲高い悲鳴を上げ、騒ぎは運転席に届かない。章一郎は非常事態を伝えるべく、前方の鉄板を叩いた。繰り返し、乱暴に叩くが、応答はない。耶絵子が幌の布を開けて、叫ぶ。かなり標高の高い箇所を進んでいるのか、吹き込む風は冷たかった。


 ややあって、トラックは漸く停止した。幌の中を覗き込む太夫元の深川に、耶絵子が状況を伝える。展望台を備えた休憩所だった。小さな売店は、その昔ここが峠の茶屋だった名残か。作造が瑞穂を抱え、先頭を切ってトラックを降りた。


「気分を悪くした程度じゃないわ」


 春子はうっすらと涙を浮かべ、なおも顔色を失っている。そして休憩所の椅子に横たえられた瑞穂は、それ以上に深刻で、咳が治る気配もない。座員は不安げに見守るだけで、どうすれば良いのか誰も分からなかった。


「麓に町に引き返して、お医者さんに診てもらいましょう」


 沈黙を破ったのは、章一郎だった。山道に入る手前に小さな町があった。田舎町だが農村よりは開けていて、診療所のひとつくらいはあるかも知れなかった。


「あの山道を戻るのは辛いかも知れない。わたしだって少し車酔いするくらいだもの」


 耶絵子の言葉に何人かが頷いた。振動の激しい九十九折つづらおりを戻るのは過酷で、症状が悪化する懸念もある。かと言って、峠から先が穏やかであるとも断定できない。


「すぐに引き返せばよかったんだ。何度も、運転席の後ろを叩いたんですよ。それでも止まってくれなかった」


 棘のある口調で章一郎は言った。苛立っている。まるで深川が気付いていながら停車しなかったとでも言いたい口ぶりだった。珍しく声を尖らす章一郎に、一同は驚く。いつも父親のように慕う太夫元に対し、狼男はかつて一度も牙を剥いたことがなく、牙の先すら見せなかった。


 深川は言葉を返さない。思案顔で、黙ったままだった。

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