『重い足取りで老舗旅館へ続く石段を登った』
「これを飲むといいわ」
姿を消していた春子が、炭酸水を手に戻って来た。車酔いに効果があるのだという。看護婦のように優しく炭酸水を飲ませる様子を見て、章一郎は
少しばかりでも自分が役に立ったことに安堵した。賞賛されると思ったのだ。しかし、周囲の反応は違った。章一郎が瑞穂の不調を以前から知り、それでいて隠していたと非難したのである。
「結核だったら、あんたどうすんのよ」
百貫女が忌まわしい病名を口走る。それほど恐ろしい病いではなくとも、一座は流行病には敏感だった。狭いテントで共同生活をする職業集団にとって疫病は大敵で、怪しい者は隔離するのが常識だとも言う。
結局、瑞穂を目的地まで助手席に乗せて運び、そこで医者に見せるという案で落着した。だが、更に紛糾する一幕もあった。章一郎が自分が運転すると言い出したのだ。
トラックの運転は主に深川の役割で、長距離だと太田が交代でハンドルを握る。主に資材を積載するもう一台は、足芸の砂田が専属で運転手を務める。章一郎も運転の練習を重ね、
ここでも深川と
親指姫を助手席に座らせ、エンジンを噴かす。出発を前に点呼すると、何人か欠けている。一帯を見渡すと、展望台の端っこで大男と一寸法師が豪快に立ち小便をしていた。
旅館は温泉街の北東に位置する丘の中腹にあった。目抜け通りから離れているが、そのぶん静かで、海水浴場にも近かった。最年長者でもある巽の自慢話に誇張はなく、旅館は古めかしくも風情のある外観だった。舗道脇に建つ大きな石碑には赤い文字で「
本来なら、到着と同時に歓声が上がるはずだった。しかし、深川曲芸団一行には余裕がなく、度を超えて慌ただしかった。まず、瑞穂を背負った作造が門に続く石段を駆け登り、耶絵子と春子が後を追う。
章一郎は遅れて、小人楽団の面々と一緒に最後尾を歩いた。いきなり面妖な狼男が現れて吠えれば、迎えの仲居が絶叫するに違いない…章一郎はそうも想像したが、先刻、面目を失ったこともあって先頭に立つ気など起こらず、足取りが重かったのだ。すっかり日も落ちて、足元も暗い。
「先に医院に寄ったほうが良かったんじゃないか」
アコーディオン奏者の坂田が呟く。章一郎も同意見だった。太夫元は優先順位を履き違えているように思えてならない。峠の一件から、どうも否定的な考えに取り憑かれ、そんな自分自身にも
「章ちゃん、こっちよ」
恭しく迎えられ、大きな玄関の
「すぐにお医者さまが来てくれるそうよ」
耶絵子によると、女将は症状を聞くや否や電話を取って、掛かり付けの医師を呼び出したという。なんと親切で、手際の良いことか。章一郎は、部屋の奥で太夫元と会話する女将を眺めた。電話で話したことを思い出す。あの時、澱みなく喋れたことを思い出す。そして少しだけ冷静さを取り戻した。
仲居は部屋に案内すると申し出たが、章一郎はきっぱりと断った。ほとんどの座員は促されて、部屋に直行した。何ごともなければ、今頃は部屋で大の字になって福助たちと喜びを分かち合っていただろう。
間もなく医師がやってきて、章一郎たちは人払いされた。診察は早く、廊下で聞き耳を立てる
「道を開けとくれ」
そう言った作造の肩に、うっすらと滲む血の跡が見えた。また吐血したのだ。終わりのない悪夢の中を漂っているような感覚で、膝が震えた。トラックが走り出す音が聞こえた気もするし、幻聴に過ぎなかった気もする。
部屋に通され、遅めの夕食も平らげたが、味を覚えていない。楽しみだった温泉にも浸からず、
うるさい足音が通路に響き、深川と作造が二人だけで戻ったことを知った。
「命に別条はない。だが、絶対安静だ」
報告を受けたのは、とうに夜半を過ぎた頃だった。
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