第九章

『斯くして美女は復讐心を滾らす』

「妙な胸騒ぎがしたけど、まさかこんな酷いことになるなんて」


 指定された劇場の前で、耶絵子やえこは悲嘆した。彼女だけではなく、曲芸団の一行は誰もが途方に暮れた。


 異常事態を察知したのは、温泉街の千秋楽が終わり、夜にささやかな宴が開かれた時だった。漫才夫婦が姿を現さなかったのである。蟒蛇うわばみで大食漢の百貫女が宴席を逃すはずがない。旅館内を隈なく捜索したが見付からず、更に堂上も雲隠れしている事実が発覚した。共演予定の歌劇団は新車の大型バスを持っていると耶絵子が説明するや、一同は納得したように、口を揃えた。


「きっと、その快適そうなバスに相乗りしたに違いない」


 だが、太夫元にも無断で、誰にもことづけしていなかった。逃げ去るように忽然と姿を消したのだ。章一郎ら芸人五人と道具方の棟梁、そして奇術師ら三人が欠け、宴席は寂しく、沈鬱な空気に支配された。


 残された曲芸団一行は、翌朝早く温泉街を発ち、夕刻までに帝都・浅草に到着した。そして予約済みだという宿屋で荷解きをしようすると、断られた。主人は何も聞いてないと言うばかりで、埒が明かない。次いで、歌劇団と共演する予定の劇場を訪れたところ、そこは老舗の寄席だった。


「歌劇だと。バカ言っちゃいけねえよ。うちは明日も明後日も、一年後だって落語と講談だよ」


 耶絵子は宣伝チラシを見せて粘ったが、寄席の席亭せきてい*は知らないの一点張りだ。舞台と宿屋は実在したが、ほかは全部が全部、出鱈目だった。歌舞伎や芝居にも詳しいと自負する席亭も、その歌劇団の名は聞いた覚えがないと話す。


 何の宛てもない帝都の真ん中に、深川曲芸団は放り出された。仕事もなければ、泊まる場所もない。浅草近辺に野営ができるような更地は見当たらず、隅田川沿いに野っ原もない。最悪の事態だ。耶絵子を筆頭に皆が歌劇団支配人と名乗る男の悪口を言った。


「あの野郎、許しちゃおけねえ」


 怨嗟えんさの声が渦巻く。誘い文句を信じて共演を決断したのは太夫元たゆうもとだったが、責める者は居なかった。深川は血の気が失せたような蒼白い顔をしていて、自分たちが置かれた立場よりも、章一郎ら消えた座員の身を案じていた。


「ここに居ないのなら、いったい何処に行ってしまったのか…」


 手違いでも取り違えでもなく、騙されたことは明白だった。歌劇団の親玉は想像を絶した悪人で、計画的な犯行の匂いも濃い。指名され、連行された者たちが別の場所で安穏あんのんとしている可能性は低かった。  


 銷沈しょうちんしつつも深川は手を尽くした。曲芸団を旗揚げした頃、世話になった稲荷神社が吉原方面にあると言う。断られるのを承知で飛び込んだところ、宮司は代替わりしていたが、若い頃に傴僂男せむしおとこの芸を見た覚えがあると懐かしそうに語った。


 夜も更けて行く宛てもない。宮司はとても憐れんで、境内に曲芸団のバスを招き入れ、目処がつくまで留まるよう言ってくれた。一同は安堵したが、耶絵子は怒りが鎮まらない様子だった。


「どっかに手掛かりがあるはずよ。あの山師やまし、草の根分けても見付け出してやる」


 美女は復讐心をたぎらす。同じ夜の底で、章一郎ら五人が土蔵に閉じ込められていることなど知る由もなかった。


<注釈>

*席亭=寄席の経営者、支配人。

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