『慟哭の波止場に鬼火が迫る』

 冬の大三角を見付けた。一等明るく輝く星の名は何と言ったか。風はやや強く吹き寄せるが、雲はかすかで、夜空は恨めしい程に美しかった。何週間か前、秘湯から眺めた神秘的な夜空を章一郎は思い起こす。次に仰ぎみる時があれば、水平線の近くには南十字星が瞬いているかも知れない。


 煌めく天井の下には暗い海が横たわっていた。沖に漂う浮標ブイの小旗が揺れる。細長い防波堤の突端で波が砕ける。出港した主人を待つ艫綱ともづな。黒い塊に似た無人の船。夜の波止場は凍て付いて寂しく、見る者の嘆きすら寄せ付けない。


たつみさん、話してくれて有り難う。気持ちの整理はとても出来ないけど、冥土の土産になった。父様とっさまとは彼岸で逢うことになるのかな」


「またくだらんことを、と言いたいとこじゃが、わしは確実に冥土行きじゃな。長い船旅なんて、窒息してお陀仏じゃ」


 巨大な倉庫から引っ張り出され、五人は岸壁に並べられた。章一郎と巽は覇気なく素直に従ったが、作造は激しく抵抗した。巨体を揺らし、猿轡をませようとした男の手を服の上からかじった。長時間寝ていたこともあって、力がみなぎっているようだった。それでも敵側の怪力対策は周到で、作造だけ車輪の付いた台に載せられた。足のおもりは外されたものの、手足は硬く縛られ、身体を捻ると台車が滑る。自由に動かせるのは口だけだった。


副島そえじま、この野郎、生きて帰れると思うなよ」


 巨人の怒号が響く。勇ましいが、この状況で生きて帰れないのは、どう考えても緊縛されている側だ。副島は眉ひとつ動かさず、平然としている。久しぶりに章一郎は、その忌まわしい顔を拝んだ。


 章一郎が最後に見たのは、彩雲閣さいうんかくの駐車場だった。そして、いま奴が着ている服は、あの海辺の公園で最初に会った時と同じものだ。気障な縦縞の背広。忘れもしない。美少女を従えているところも一緒である。


 波瀾の日々を回想しつつ、章一郎は目の前に居る中年男と少女を見詰めた。副島の隣に控えるのは、妹の極夜きょくやだ。今さら驚く必要もないが、髪の毛の跳ね方までまったく同じに見える。本人以外は区別がつかない、と白夜びゃくやは語っていたが、決して誇張ではなく、事実だ。ただし、二人を見比べた印象では、姉のほうが表情も豊かで、端的に言えば明るい。妹は若干伏し目がちで憂いがある。そっくりの外国人形でも無機質な感じが強い。


 一推しの歌劇団員に再会しても、福助は喜んでいなかった。比喩ではなく、崖っ淵に追い詰められているのだ。状況が状況である。無理に目を背け、俯いていた。白夜によれば、妹は好き好んで支配人に付き従っているわけではないようだが、並び立つ二人を見る限り、極悪人とその配下だ。好感が持続するはずもない。一寸法師が失恋した夜である。


「おい、副島。ラスリングって何のことだ。答えろ」


 作造の不安も焦りももっともだ。独りだけ売られる先が違うという。西洋角力せいようかずもうだか、武道家の舞台芸だか、手品師が口を滑らせた生業なりわいに関しては、物知り博士の柏原も何ら知識を持ち合わせていなかった。


「おやおや、なんでそんなことまで知っているのですか…ふむふむ、なるほど。堂上どうがみ君は口が軽くて困るのです」


 副島は情報の一部が漏洩したことを知らなかった模様だ。手品師を呼び付けて囁く。声を低めていて会話の内容は不明だが、堂上は厳しく注意されているようにも見える。両者の上下関係が推し量れる光景だ。手品師の小物臭は時たま良い味を出す。


「相撲や柔道よりも面白くて、実に興味深い世界なのです。これから世界中で大流行おおはやりするでしょう。ユーはきっと素晴らしいファイターになるに違いないのです」


 用心棒に採用する話しは何処へ行ったのか。遊戯施設の撞球場どうきゅうじょうで、副島は前触れもなく、作造を勧誘した。章一郎にはそれが思い付きの提案だったように思えた。間違いなく、想定していたのは番人の代わりだ。舞台で活躍する武道家とは余りにも掛け離れている。果たして副島は、何時いつの時点からこの大それた拉致監禁、そして外国への身柄移送を計画していたのか。


「俺たちの出荷先はサーカスだって聞いたぞ。長い船旅らしいが、行き先くらい教えちゃくれねえか。奴隷にだって聞く権利はあるはずだ」


 柏原は目的地となる国を懸念していた。列強各国にもサーカス団はあるが、我が国と同じで人身売買絡みの団員補充は厳しく取り締られている。輸送地は、欧州の小国か中近東などの植民地ではないか。いずれも環境は過酷で、奴隷と同等の待遇が待ち受けているかも知れない…


 章一郎は植民地がどういうものか、冒険小説でも読んだことがなかったが、有識者の懸念は当然であるように感じた。


「奴隷の逆なのです」


 副島がゆっくり近付いて来た。隣の美少女も懸燈カンテラを携えて付き従う。今宵の彼女は雇い主の足元を照らす係のようだ。


「行き先は東の大陸としか明かせないのです。ミーは埠頭でお見送りするのが精一杯で、後は向こうさんの領分なのです。それでも、奴隷なんかとは全然違うことを知っているのです。ユーたちは銀幕のスタアみたいな高給取りになれるかも知れないのです。これはビッグなチャンスと言えましょう」


 また嘘八百が始まった。章一郎は苦々しい思いで、最後の演説を聴いた。とある大陸の大都会の話しだという。そこでは畸型が珍重され、大変な人気を博して稼ぎまくる。サーカス団に所属する者が多いが、月極めの給金ではなく、儲けの大半が自分の懐ろに入る。取り分け珍しい身体の持ち主は、職業野球の選手よりも実入が良い…


「実際のところ、手放したくないのです。ミーはユーのことが大変なお気に入りなのですよ」


 気色が悪い。副島は章一郎の耳元で囁くように言った。隣の外国人形は、これまでに見たことのない強張った表情をしている。大道芸の観覧でも、遊戯施設の球撞き遊びでもない。流刑の囚人が、いま正に海の向こう遥かへ流されようとしているのだ。


 防波堤の先端附近で、何かが光った。見張り役の男が駆け寄って耳打ちすると、副島は光源に向かって白いハンケチを振った。合図を交わしているようだ。ほぼ等間隔で光が点滅する。

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