『旅館の奥に大名の秘湯があった』
大浴場の場所は教わらずとも知っていた。階段を下ったところや、何度も通った大広間の脇など各所に、矢印の書かれた指示板がある。この老舗旅館は何世代かに渡って増改築が続けられているのか、廊下が狭くなったり、急に斜めに曲ったりと複雑な造りで、ひと筋縄にはいかない。
踊り場や曲がり角で軽く緊張した。一枚の手拭いを首に巻き、もう一枚を頭巾のように被っているが、顔面は丸見えだ。見知らぬ宿泊者との遭遇は回避したい。
「あら、こんな時間からお風呂なのかしら」
大広間に近い廊下に春子が居た。南洋風の洒落た籐の座椅子に腰掛け、隣の珠代とお喋りしていたようだ。庭園の石燈籠が二人を淡く照らす。上気した頬が、風呂上がりであることを伝えている。
「
「男湯のほうは宴会みたいな騒ぎだったわ。女湯ならもう誰も居ないはずだけど」
「まさか」
春子も珠代も笑ったが、そこに揶揄する意図はなかった。彼女たちに限らず座員の多くは、章一郎が裸体を見られることを嫌い、田舎町の銭湯ですら
「瑞穂のこと、何か聞いたかい」
話しをはぐらかそうとしたのではなかった。章一郎は夜の公演の最中、春子が太夫元と真剣な表情で会話している様子を見た。内容は、瑞穂の件に違いない。
「夕飯の少し前だったかしら。親父さんと女将がお揃いで帰ってきたらしいの。二人で医院に行ってたみたい。具合はどうとか、詳しいこと全然分からなくて心配じゃない。それで、明日、お見舞いに行きたいって相談したんだけど、行っても会えないって」
「それは面会謝絶ってやつだな。具合がよろしくないってことだ」
腕を組んで、章一郎は顔を
それなら太夫元が座員を集めて、ちゃんと報告すべきだと章一郎は憤った。深川が訓示や説教を垂れる性分ではないと知っているが、噂話しを放置すれば
「それはそうと、今日は珍しいことがあったのよ」
今にも牙を剥きそうな狼男を落ち着かせようとしたのか、珠代が話題を切り替えた。章一郎たちと別れて、女性陣三人が目抜き通りで街頭宣伝をしていた際の逸話だった。高級そうな服を着た紳士が春子を勧誘したのだという。
「歌劇団、少女歌劇団とか言ってたわね」
紳士は春子の容姿を褒め、執拗に入団を勧めた。春子は初め無視し、次いで
「街で看板を見たような気もする。でも、いきなりにせよ悪い話じゃないでしょ。歌劇団といったら大人気だし」
演芸場の前に並ぶ娘たちを思い出した。ドサ廻りの曲芸団とは格が違う。章一郎が知る歌劇団は、大きな舞台で華やかに歌って踊る憧れの的だ。群を抜いて有名な東西二つの歌劇団は新聞にも載り、話題になることも多かった。
「色々あるけど、名前も知らない歌劇団よ。それはともかく、びっくりしちゃったのよ」
熱心に勧誘された春子が自慢話を始めるのかと想像したが、逆だった。歌劇団のお偉いさんと自称する紳士は、若い娘を連れていた。それが驚くほどの美少女で、
「なんか自分とは別の世界に住む女の子って感じで、少し気味が悪くなるくらい」
連れの美少女は、軍服風の上着に、えらく短いスカートを履いていたという。髪の毛は巻き毛で黒くもなく、冷たそうな瞳と
「その女の子は、まあ、どうでもいいの。面白かったのは、失礼、困ったのは
笑って良いのか、判断が微妙な話しだった。紳士は春子をしつこく勧誘する一方、隣に立つ耶絵子には目もくれず、完全無視を貫いたという。彼女は曲芸団の花形で、男なら誰もが振り返る美女だ。背丈もすらりと高く、女優と偽っても疑う者はいない。
「最後には、
他人事とあって耶絵子は無関心な素振りだったが、男が春子の褒め言葉を重ねるうちに苛立ち、街頭宣伝の場所を移動するよう催促した。少し離れても男は付いて来る。横丁の筋に逃げても追って来る。暫くして姿が消え、やっと諦めたかと安心したのも束の間、またどこからか現れて、春子の容姿を絶賛する。美女が機嫌を損ねるも無理はない。
「相手は少女歌劇団でしょ。耶絵子さんは年食ってるから、誘われるわけないでしょ」
「あんた、それ本人の前で言ったら、張り倒されるわよ」
珠代はそう言って大笑いし、春子も吹き出した。章一郎は大真面目に話したつもりだが、年齢のことは禁句だという。よく分からなかった。耶絵子は自分よりひとつ程度上で、決して年増などではなく、若い乙女と言っても的外れではないだろう。どうにも女心は計り知れない。
罪滅ぼしの意味があったのか、暫くの間、普段の耶絵子がいかに男衆にちやほやされるかといった話しで盛り上った。四方山話が一段落した時、女将が現れた。随分と夜遅くまで働いているものだ。感心して尋ねると、外出した客が帰ってきて最後に鍵を閉めるまでが仕事だという。女将は客人に湯加減の良し悪しを聞き、そして、章一郎の被り物に目を配った。手拭いが乾いていることに気付いたようだった。
「もし宜しければ、特別な風呂を案内させて頂きたく存じます」
戸惑う章一郎に対し、女将は案内板に記されていない風呂場があると告げた。女性陣は促し、見送った。唐突で謎めいた提案だったが、素直に従う。大浴場とは反対の方角だった。
「
女将は問わず語りに由緒を解説した。江戸の昔遠く、
「と申し上げますのは、ぜんぶ嘘っぱちでございます」
先々代に当たる主人が、面白半分に命名したのだという。流行りだったらしく、別の旅館にも似たような名の風呂場があり、
敷地の最奥、
「正しい由緒はなくとも、特別な風呂であることに偽りはございません」
竹垣の狭い入り口を抜けると、湯殿があり、もうひとつ背の低い垣根が設けられていた。天井はない。露天風呂だ。女将が言うには、いわゆる一元さんお断りで、得意にしてくれて二度三度と訪れる馴染みの客に限って案内するという。
「一座の皆さんは初めてでもお得意様と同じでございます」
慎ましくお辞儀して、女将は退いた。太夫元は昔の馴染みと言うが、
絶景だった。眼下に温泉街の夜景が広がり、浜も見渡せる。妖しく点滅する不夜城と雄大な海。それは額縁に納められた絵画に似ていた。
「本当に、殿様になった気分だ」
一本の体毛も湯に落とさぬよう念入りに全身を洗い、そして、ゆっくりと浸かる。全身の血が沸き、毛が逆立つ。熱いのに、心地良い。これまで味わったことのない感覚だ。
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