『赫い夜空に海鳥は啼く』

「ほうら、章ちゃん、簡単でしょ。手品なんて種を明かせば、こんなもんなのよ」


 弾ける笑顔で得意気に話す耶絵子やえこの姿が鮮明に頭に浮かんだ。一年か、それより以前のことだった。暇を持て余していた野営地で、章一郎は水中縄抜けの仕掛けについて尋ねた。すると彼女は小道具の縄を使って、実演して見せたのだ。


「仕掛けは二種類あるのよ」


 最も重要な仕掛けは、幾重にも巻く際、縄の一部を交叉したに挟み込むことだ。間に挟んだ部分が余裕になって、両手を強く開けば、ほぼ一瞬で縄は外れる。耶絵子が言うには、縛られているのではなく、間に通した縄を両手で押さえ付ける感じだ。


 奇術師は客の目に触れぬよう早業で行う。いま岸壁で堂上が行った作業がこれだ。演目と違って凝視する観客もなく、実に容易い。そして、交叉させた両手に縄を巻く箇所にも単純なトリックがある。手首ではなく、数センチばかり肘に向かった辺り。肘を伸ばして手の平を重ね合わせるだけで縄は緩む。


 舞台に招かれて検査する観客は、固い結び目にしか関心がない。だが、それは単なる飾りである。縄を外すまでの所要時間は、一秒か二秒。水槽に黒い幕が掛けられると同時に、縄抜けは完了しているのだ。


 それで、どうすれば良いのか…章一郎は辺りを注意深く見回した。近くには堂上と一名の見張り役が居るだけだ。牢の番人ら防波堤の二名は、渡した板を押さえるので必死である。


 縛られた足にも違和感があって、同じ仕掛けが施されていることが分かった。自分独りが逃げるのは造作もない。福助を手荷物のように持ち上げて疾走することも可能だ。ほかの三人は、置いて行くしかないのか。まず両脚を動かしてみる。案の定、苦もなく縄は緩んだ。それで、どうする…陸上の敵勢力は四名。裏切り者の手品師を除けば三名だ。いや、違う。作造が自由になれば、敵は存在しないに等しい。


 ズボンのポケットには重みがある。白夜びゃくやがくれた五徳ナイフ。素早く、作造の手の縄を断ち切るのだ。試した経験はないが、恐らく二十秒か三十秒。刃渡りが短いとは言え、その鋭さは折紙付きである。果たして、ことは想定通りに進むか。もう一度、辺りに目を配った時、はしけで異変が起きた。


「おい、やめるのです。ああ、おきょくさん、なんてことするのですか」

 

 信じ難い、まったく予期せぬ光景だった。極夜きょくやが副島の手にあるものを奪い、木箱の中に投げ入れた。ひらひらと舞う。お札に違いない。木箱の側面は子供の背丈程で、慌てた副島が叫び声を上げ、身を乗り出して拾おうとする。その隙に彼女は異邦人の鞄から札束を鷲掴みにして、同じように木箱の中に投げ捨てた。更に、携えていた懸燈カンテラも投げ入れ、ほむらが上がった。


 最後の最後に訪れた好機だ。章一郎は縄抜けして、ポケットから五徳ナイフを取り出し、作造に強い口調で命じた。


「手を突き出して、それで動かすな」


 自らの足の縄も瞬時に解けた。章一郎は大男に飛び付き、その両手の縄に刃を当てる。想定通りには行かない。接近する足音。見張り役が迫っているのか。腕に一層の力を込めると、手応えがあった。切れそうだ。

 

「大変だぞ。白雪姫が、大変だ」


 艀の木箱が焔々えんえんと燃え、煙が立ち昇る。舳先へさきのほうで誰かが海に飛び込んだ。帽子の異邦人だろう。もう一人は両手で顔面を塞ぎ、身体を捻るようにして舷側から転落した。副島だ。頭から火を噴いているようにも見えた。


 少女は何処いずこか。煙も濃くなって、良く見えない。福助がまた叫ぶ。渡していた板切れ諸共もろとも、防波堤の男が海に落ちた。その板の近く、ともに少女の姿が見えた。危うい。火の粉に襲われている。


「うおおお」


 作造が雄叫びを上げ、縄を千切った。それと同時に少女が体勢を崩して転げ海中に落ちた。岸壁の縁を踏み台に、章一郎も火の粉が舞う中に飛び込む。熱くて、冷たい。異様な感覚だ。波も荒く、夜の海が全身に絡み付く。火の粉を避けて潜ると、浮かぶ板の先に白い手が見えた。


 闇雲に泳いで、その手をしっかり捕まえる。彼女の脇に頭を突き入れ、一気に海面に躍り出る。ぎりぎりだったかも知れないが、大丈夫だ。極夜は大きく息を吐いた。板を引き寄せて上に乗せようとするが、波に煽られ、手も滑る。


 危機は去ってくれない。爆発音のような響きと共に空気が震えた。


 火屑ほくずとばりの奥に盛んな焔が見える。艀を曳航していた小船船に延焼したのか。少女を肩に担ぎ、防波堤に沿って沖に向かって泳ぐが、桟橋も階段も梯子もない。艫綱ともづなが海面に垂れていたのは、燃え上がる二隻の近辺だった。逆の方向で、そこには近寄れない。どうやって極夜をおかに引き上げれば良いのか。


「これで良かったんだよね。そう、きっと」


 肩の上で彼女が喋った。荒波に揉まれ、少し海水を飲んだようだが、意識もはっきりしている。大事だいじない。


「もうちょっとだけ、頑張ってくれ。直ぐに、どうにか堤防にじ登るから。ちょっと待ってくれ。心配は要らない」


「ありがと。お任せするよ。ありがと、章一郎兄さん」


 屋根裏の懲罰房で耳にした、小っ恥ずかしい呼び方だ。双子姉妹は、呼び方まで共有しているのか。彼女の腰に手を回して、更に高く抱え上げ、向かい合う。そっくりで見分けがつかない。焔に照らされたその顔は小さく微笑んでいた。少しも無機質なんかではない。


「わたしは白夜びゃくやよ。ありがと、章兄さん」


 愕然として、抱える少女の顔を覗き込んだ。違いは判らないが、懸命に包帯を巻いてくれたあの優しい顔。演芸場で初めて会った時も、こんな表情で、怖がりもせず、真っ直ぐに双眸を見ていた。


「助けに来てくれたんだ…あんなことまでして、助けてくれたんだね」


 危険な綱渡りをさせてしまった。幼さの残る少女を大胆で無謀な行動に駆り立ててしまった。物語で読んだどんな冒険譚の主人公よりも果敢で勇猛だった。白雪姫が小人たち五人を絶望の淵から掬い上げてくれたのだ。


 海の焔は衰えることなく燃え盛り、火の粉と煙を噴き出している。艀の上に並んでいた木箱は焼け落ちて、形を失った。それは五人を閉じ込める檻であり、棺でもあった。忌まわしきものの一切が燃えて、尽きていく。痛みも苦しみも後悔も焼け落ちて、醒めない悪夢までもが灰と化す。


「おーい、章一郎、この縄に掴まれ。直ぐに引き揚げる」


 防波堤の上を走る二つの小さな人影。白夜がそれに応じて白い手を大きく振る。仰げば、美しい夜の空。煌めく星に火屑が入り混じるあかい夜空。幻想的で神秘的で、全てが現実から遠く掛け離れ、乳海にゅうかいを漂流しているかのように思えてならない…星座が織り込まれた無窮むきゅうの絨毯。冬の星の儚いまたたきをついばみ、遙か海鳥が飛んで行く。


 鳥ではない。堂上だ。両手両足を大の字に開き、竹蜻蛉たけとんぼのように高速で旋回して、海面に墜落した。

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