『背筋も凍る石灯籠の幽霊騒ぎ』
その夜、旅館で幽霊騒ぎが起きた。
最初の目撃例は、彩雲閣に
女の幽霊だったと口を揃える。庭園の石燈籠に照らされた青白い顔が浮かび、植木の奥に消えて行ったと語った。足があったと証言する者もいれば、足はなかったと震える者もいる。
「こんなこと滅多にない。古い屋敷の時に出たとか、そんな話しもあったようだが、先々代の頃で誰も覚えちゃいない」
目撃談をとりまとめたのが番頭だ。四人組の一人が駆け込んで来たので、慌てて庭に回ったが、不審な点はなかったという。団体客は散歩の帰りで、酔ってはいなかった。これだけなら騒ぎにもならなかったが、三番目の目撃例が曲芸団の道具方だった。
お湯を調達しに行く途中、庭園を望む籐椅子の辺りで、窓ガラス越しに見たと訴える。やはり女の幽霊で、石燈籠の近くを浮遊していた。目と目が合ったようにも思えたが、無表情で、宙を見詰めているようだったなどと熱く語る。問題は目撃した時刻だ。夜公演の終盤、霊交術の演目の最中だった。
「因縁があるに違いないわ。きっと恨みを持ったまま亡くなった舞妓さんよ」
一番怖がりそうな春子が、意外にも怪談好きだった。道具方の話しを親身になって聞き、番頭にも探りを入れて噂を拡散した模様だ。座員が風呂を浴びる時間帯、籐椅子の周りに大勢が集まった。福助に呼ばれ、章一郎や柏原も駆け付ける。
「怨念にまみれた悪い霊に違いありません。祟りをなす遊女と察します」
霊交術師の
「土地や屋敷に取り憑いた哀れな魂で、これを地縛霊と呼びます。稀に岩や樹に憑依することもあって、うむ、あそこの石燈籠が実に怪しい」
少し調子に乗っているようだ。座員なら誰しも、葦澤が霊感とは無縁の偽者と知っている。それでも怪談調の語りは達者で、人を惹き付ける力量があった。独特の陰気な雰囲気とあいまって、本気で怖がる者も出始めた。
「怖くて外のほうを見れないよ。今晩、おしっこに行けなくなる」
震え上がる一寸法師が、章一郎は可笑しくて堪らなかった。これは葦澤による即興の
新しい目撃例も入ってきた。一階最奥部の階段附近にも女の幽霊が
「最初に出現したのが玄関先の石段で次が庭。徐々に近付いてきて、遂に屋敷の中にまで入り込んだようです」
偽霊交術師が適当なことを言う。聴衆の中には、幽霊騒ぎのきっかけを作った団体客も混じっていて、主に春子が話しを聞き、語り部に耳打ちする。無口な葦澤が滔々と喋る姿は面白いが、場当たり的で展開も地味だ。いい加減飽きてきて、章一郎と柏原が部屋に戻ろうとした時、詳しい目撃情報が入ったとして霊交術師が大仰に言った。
「目撃した男性によれば、石燈籠の幽霊は若い女で、白い素足も艶かしく、軍人さんのような格好をしていました。恨みを抱いて自害した遊女の霊ではないようです」
断定的に語っていた浮かばれない遊女説は、どこへ消えたのか。章一郎は茶々を入れたくなったが、引っ掛かるところがあった。軍人みたいな服装に、素足。見覚えがある姿だ。そして、寄り添う黒い影…副島は黒い背広を着ていることが多かった。
章一郎の背筋に冷たいものが走った。
千秋楽の公演が終わった。最終日はマチネのみで、ソワレはない。片付けをして、夜に大広間で宴会を催す段取りになっている。客足は
章一郎はまったく気付かなかったが、親方はすでに何度も来ていたという。すっかり水槽の美女に惚れ込み、千秋楽の公演には大きな花束を携えてやって来た。曲芸団宛てではなく、耶絵子個人への贈り物だった。
「来年も必ず来い。来なけりゃ、どこにでも押し掛けてくぞ」
相変わらず眼差しは卑猥だが、嫌味なところのない粋な親方だった。美女のほうも好感触のようで、いつもは寄って来る男を邪険に扱うが、この親方は例外で、何度もお礼を言って別れを惜しんでいた。
長閑な昼下がりになるはずだった。
事態が急転したのは、章一郎らが大広間で寛いでいた時だ。駆け込んで来た女性陣が、彩雲閣に例の粘着質の紳士、すなわち副島が現れ、太夫元と話し合いをしていると告げた。
「いつ来たのか知らないけど、
太夫元に挨拶したいと申し出た親方を連れて、耶絵子が一階奥の部屋を訪ねると、そこに副島の姿があった。三人は膝を詰めて相談の真っ最中のようだったが、話しの中身に関しては何も分からないという。
「あの顔を見ただけで
毛嫌いしている。昨日、演芸場で対面していたら、大揉めになって話しが
歌劇団の親分が、曲芸団の根城に踏み込んで来たのだ。穏やかではない。
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