『生け擒りの珍獣に鞭は打たない』

 朝起きると、外は一面の銀世界だった。まず、早朝から監視活動に励む福助が驚きの声を上げた。窓からも細雪が入って来る。ほかの五人は一回目の食事が運ばれた際に、変わり果てた景色を目の当たりにした。未明から降り頻っているようで、扉の向こうには分厚く積もった雪があった。


「脱獄計画も真っ白になった」 

 

 小人楽団のリーダーは悲嘆した。雪の上を歩けば、くっきり足跡が残る。しんしんと降り続いても、新たな雪が痕跡を消すには至らない。今日はもちろん、明日も偵察作戦は中止せざるを得ないと言う。福助が単身敷地の外に逃れて助けを乞う策も破綻した。足跡は土蔵から門の向こうまで点々と刻まれる。それは追っ手を道案内するに等しい。


「御天道様の機嫌次第だが、積もった雪が溶けてぐちゃぐちゃになるまで、三日四日とかかるかも知れん。なあ、章一郎、ここに閉じ込められてから今日で何日目になった」


 章一郎は錆びた釘で壁に印を描き込んでいた。本日分を追加すると「正」の字が完成する。五日目だ。ただし、最初の晩に線を引いたか曖昧で、書き忘れた日がないとも断言できない。


「五日目か、長いな。しかしまあ、別当べっとう君は一箇月以上も監禁されてるってんだから、わしらもまだまだ新米じゃ」


「見せ物小屋に居た時と左程さほど変わりがありません。飯の量はこっちのほうが多くて、そんなに味も悪くない」


 また切ないことを言う。別当青年は人柄も穏やかで話しも面白く、曲芸団の面々とすっかり打ち解けていた。取り分け、たつみが気に留めて色々と話し掛け、相談にも応じる。年長者らしい気遣いだった。


 青年は早食いが特技で、飯も普通に平らげるが、時折、胸を押さえた。動悸が切迫するのだという。心悸亢進しんきこうしんおぼしき症状である。その様子を見る度、章一郎は病床の瑞穂みずほを思い出して自らの胸も痛んだ。


 当人は、肺腑ではなく心臓系の疾患で畸型の者にはよくある、とこれもまた悟ったように話す。そして、副島は当初この動悸について注意深く観察していたと付け加えた。 

 

「生けりだからな。やっこさん、獲物の体調には敏感なんだよ。動物園で飼育される珍獣と同じさ」


 生け擒り説は柏原の持論だった。暴れる者を鞭打って脅すような真似はしない。売り物に傷を付けたり、壊したりする商人あきんどは居ないと語る。それを聞いて福助は仮病作戦を提案した。


 腹が痛いと叫び、のたうち回る。全員で演技すれば番人も慌てて、どうにかする…一寸法師はこれぞ天才の発想とばかりに自信満々で説いたが、即座に却下された。脱獄作戦の腹案が生煮えで稚拙になってきた。


 章一郎と作造は、なおも強硬策を棄てていない。番人が現れる度、扉に飛び付き、鉄の鎖を叩く。作造は手応えがあり、繰り返せば直に砕けると言い張るが、何日掛かるか見当も付かず、鎖や留め具が弱ったとしても相手に気付かれて補修されれば元の木阿弥もくあみだ。現実的とは言えなかった。


「堂上を呼べ。お屋敷に来た変な男だ。分かるだろ。そいつをここに連れて来い」


 午後に番人が大扉の向こうで恐らく雪掻き作業を始めた際、作造が叫んだ。危険な賭けでもあった。なぜ館に潜伏していることが判ったのか。堂上が勘ぐれば、福助の偵察が露見する恐れもあった。しかし、一度叫んでしまったものは取り消せない。ほかの芸人四人も一斉に叫んだ。意味が通じないのか、しらを切っているのか、番人は何の反応も示さず、黙ったままだった。


 雪は夕刻まで降り頻り、更に積雪量は増した。小柄な監視員によると、館一階の電燈が点いていると言う。これまで灯りのなかった部屋だ。煙突から立ち昇る煙も見える、と少し興奮した調子で報告する。大雪の中、誰かが帰ってきたに違いない。雪に覆われた坂を車が登るのは難しく、ほぼ不可能だが、章一郎は新たな住人が副島そえじまであるように思えた。


 夜の食事が配達された時、作造が意外な行動に出た。鎖を叩く拳の代わりに、紙幣を差し出したのだ。番人は物欲しそうに眺め、やがて右手を動かした。その瞬間、作造がさっとかわして紙幣を背後に隠す。 


「ダメだ。いいか、堂上をここに連れて来たら、お前に金をくれてやる」


 買収は別当青年が言い出したもので、前に検討した脱獄作戦のひとつだったが、効果が期待出来ないとして廃案になった。しかし、筋は悪くなかった。番人は理解したようで、軽く頷き、去って行った。堂上をおびき寄せたとしても脱獄とは無関係だが、対面して罵倒したい。唾を吐きかけることくらいは出来る。それは衆目の一致するところだった。


 その夜、章一郎は初めて味噌汁を口にした。あの眠り薬のような、得体の知れない薬物は汁物に混入されていた。作造と福助が昏倒した際、苔色の汁物を摂取していなった章一郎と別当青年だけが異常なしだった。その後の人体実験で汁物に問題があることは簡単に割り出せたが、詳しくは今も不明だ。


「この、なめこが怪しい」


 曲芸団の有識者はキノコ類に眠り薬と同等の成分があると主張して、味噌汁から除去したが、やはり眠気に誘われた。眠いと言うより、気怠く、身体が重く感じられる。章一郎は初めて摂取して、感覚が掴めた。酒の酔いとも違う。腹が減り、残りの冷めた汁を啜るという悪循環。それでも獄中の暮らしに支障が出るわけでもない。何の予定もない夜をやり過ごすだけだ。


「柏原さん、あなたと福助だけでも逃げて欲しい」


 横になり、ぼんやり窓を見詰めながら、章一郎は囁いた。柏原も体格的にぎりぎり窓を潜り抜けられそうだった。ただ、軽業師のように巧みに上半身を反転させることは困難で、頭から墜落する危険もあった。それでも、怪我をしたとしても、逃げられるのなら逃げたほうが良い。


「くだらないことを言うな、章一郎。置き去りにして行けるわけがなかろう。五人、いや六人一緒に脱獄するんだ。機会は必ず訪れる。最後の最後まで諦めちゃいけねえ」


 寝てしまったのか、その後、何も喋らなかった。章一郎も朦朧として、返答する気力が失せる。もちろん諦めてはいない。だが、運勢は良くない方向に傾いているように感じられた。大雪が降るなんて、誰も想定していなかったのだ。


 選択肢はひとつひとつ削ぎ落とされ、脱出口は日を追ってせばまりつつある。



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