『磯辺のクラリネットに根魚は踊る』

 引き潮は分が悪いのか、釣果は芳しくなかった。一時いっときかけて針に掛かったのは、鰯よりも二回り小型の平べったい魚ばかりだった。合計で六尾。びく籠の底を埋め尽くすことはなさそうだ。


「鯛や平目なんて、そうそう簡単に釣れるもんじゃない」


 どこかで覚えた台詞を章一郎は繰り返し、福助をなだめる。小説か漫画本にあった文句か、仲間の誰かが言ったのか、思い出せない。曲芸団で釣りが流行ったのは何年も前で、かつ短い期間だった。川魚は生臭く、煮ても焼いても不味かった。


 餌の採り方は、漁村出身の道具方に教わった。磯端いそばたに転がる石や岩をひっくり返せば、いくらでも手に入るという。信じ難い話だったが、その通りで、水際の大きな石の下に、ミミズに似た奇妙な生き物が棲息していた。醜悪な外観よりも、千切って針に刺してもまだ動き続けるのが気味悪かった。

  

 福助は顔を顰めることもなく、逆に面白がって拾い集めた。餌ばかり増えても仕様がない。そのうち磯場に潜むカニを発見し、釣り竿を放り出してカニ狩りに夢中になった。これも籠一杯に獲ったところで意味がない。


「ナマコもたくさん居るぞ」


 軽快に岩から岩へと飛び回る。さすが軽業師と褒めるべき達者な身のこなしだが、岩は濡れ、海藻も絡み付いていて危ない。それに時折大きな波も打ち寄せる。さらわれたら、小さな身体はひとたまりもないだろう。


 福助が泳ぐ姿は見たことがない。章一郎は少年の頃から川遊びが好きで、水泳の心得もある。一寸法師が海に落ちてたとしても、救助は容易い。しかし、二月の海だ。水温は想像以上に冷たく、ずぶ濡れになるのは御免こうむる。全身にまとった毛皮は、そう簡単に乾かないのだ。


「今夜のおかずは釣れたかい」 


 背後から声がした。小人楽団の柏原だった。章一郎が渋い顔で籠の底を見せると、愉快そうに笑った。釣りに来たのではないようだ。竿ではなく、クラリネットを手にしている。


「どうしたんですか。こんなところまで出向いて」


「釣り場なら人も居ないし、都合が良いと思ってな。その後、お姫さまの具合はどうなんだい。みんな小声で話していて、分かったような、分からないような。どうにも噂話は性に合わん」


 お姫さまとは瑞穂のことだ。具合に関しては章一郎も詳しく知らない。太夫元によると、容体は入院した時と変わらないという。悪くも良くもなっていない。ただし、これも直接知らされたものではなく、伝言の伝言で、噂話の域を出ない。

  

「マチネの後、僕ら何人かでお見舞いに行く話しになったのだけど、行っても病室には入れないそうです」


「面会謝絶というやつだな」


 磯の水溜まりで、福助は何かと格闘していた。その様子を眺めながら、柏原は強張った表情で呟く。章一郎は医院の仕組みについて、ほとんど知識がない。漫画本で軽く読んだ程度だ。


「なにか二度と会えないような気がして、それで、自分がどうしたら良いのか分からなくて、もう…」


「つまらないことを言うな章一郎。お前さんが弱気になってどうする。なんにも手助けできないのは、みんな同じだ」


 柏原が一喝すると、章一郎は唇を震わせ、無言で頷いた。言葉が出て来ない。どう返事をしたら良いのか、分からない。釣りでもすれば少しは気が紛れ、束の間でも瑞穂のことを、あの青白く苦しそうな表情を忘れることが出来ると思った。しかし、現実は甘くなく、夢想も理想もあっけなく覆る。


「相方を欠いて、これから暫く道具方をやるつもりか。裏方の仕事は大切だ。でも、お前さんには役不足だろう。それで、こいつの出番ってわけさ」


 得意気にクラリネットを振り上げた。金具の部分が日の光を浴びて煌めく。一拍して、吹き始めた。出だしだけで直ぐに曲名が判った。いつも舞台で歌う章一郎の十八番おはこ。言わずとも知れる。彼は自分が瑞穂の代役を務めると申し出たのだ。柏原は面倒見が良く、目配りも効く。小人楽団のリーダーらしい配慮だった。


「笛に上手く合わせられるかなあ」


「何とでもなる。任せとけ」


 瑞穂の伴奏を仕立てた人物が柏原で、編曲のほか作曲も自在にこなす。霊交術の劇伴を始め、演目の大半の曲を書いている。音楽全般に詳しく、専門用語を駆使して独りちすることも多い。章一郎が知恵を絞って創った歌詞に対し、バラッドには恋物語や風刺が必要だと辛辣に批評したが、詩文の素養はなく、興味もないようだ。楽曲ひと筋の職人といった風情である。


 一寸法師が磯遊びをやめて不思議そうに眺める。彼の足元で波が砕け、白い泡が立った。沖合いに漂う何艘なんそうかの漁船は陽炎に似て、遠ざかっているようにも、近付いているように見える。


 伴奏に合わせて歌った。狼男のテノール。その伸びやかな歌声は、潮騒を掻き消して高らかに響いた。

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