朝歌の夜
北であった。中華と呼べぬほど遠い北に複数ある豪族のいくつかが同時に立ち、商の影響を濃く受ける別の豪族の邑を襲った。それがすぐにできるくらいに、彼らは南下してきていた。
元来、北とは商に対する恨みの深い地域である。聞仲は、自身が出陣し、黄尾山という山をひとつ消し去ったときのことを思い出している。犬戎、白狄などと呼ばれる彼らは野蛮でずる賢く、かつ死を恐れない。だから討伐したようなものだが、そういう歴史の全てが、彼らを反商に向かわせている。
陥落した邑に向かって、周辺の豪族が兵を出している。おそらく、北から来た蛮族どもは、それで抑え込めるだろう。そう思ったとき、諜報の網から別の報せがもたらされた。受けて、やはりと思った。
「斉、進発す。その数、一万七千」
動きはじめた。斉は、周に次ぐ国力を誇る。黄河が斉と商を繋いでいるから、あっという間に勢力圏の中ほどにまで進軍をしてきかねない。
一万七千という数は、多すぎる。動員可能な兵力のほとんどを投入しているか、あるいは影響する豪族たちをすでに糾合し、合流したうえで進軍しているか。
前者ならば斉が、この出戦で消耗した国力は商から人や作物を奪うことで回復するつもりでいるということであり、後者ならば油断のならない連携をすでに見せており、かつ、後詰めもあるということになる。どちらにしろ、厄介なことこの上ない。
周軍はどうしている、と思ったら、翌日にはまた別の報せがもたらされる。諜報の元締めたる、盂炎自身からである。
「姫発、いよいよ軍を発し、申に至る。一度退けるもなお盛ん、壁外に陣する」
聞仲は、そこで即座に周囲の者に命じた。
「南の諸国諸公に向け、人を放て。
それを聞いた紂王が訝しむ。
「この朝歌に向けて集めなくてもよいのか」
聞仲は、それに静かに応えた。
「朝歌に引き込んだ者の中で変心をする者があらわれれば、一大事」
なるほど、そうなれば内部にも敵を抱えることになる。この巨城を陥とすのなら、うってつけの策であろう。聞仲は、呂尚がそれをも狙い、南の諸公にもすでに手を伸ばしているものと見ている。
しかし、それは紂王に別の感想をもたらした。引き攣ったように唇を歪ませ、
「それほどに、俺は嫌われ者というわけだ」
と笑った。
「好かれるか嫌われるか、そのようなことを論じてもどうにもなりません」
「そのとおりだ。戦いのことは、お前に任せている。俺などがいらぬ口を挟むのは、よそう」
「そうも、申しておりません」
紂王は王なのだ。本来、王ならば自ら先陣に立ってもいいくらいである。この当時の王とは、そういうものである。しかし、聞仲は、北からの侵攻の一報を受けたとき、
「まだ、西にも東にも憂いがある。軽々に王が出て行き、虚を突かれてもつまらぬ。それに、どちらの敵も、王が出るまでもなく一捻りに揉み潰せるほどのもの」
と国内に宣言し、朝歌に留め置いた。
紂王は、逸っている。そう見える。昔のように酒や女に溺れるのをやめてから、めっきり王らしくなった。だから、もしかすると本心では自ら戦場に出て戦いたいと思っているかもしれない。
そうは思えるが、それにしては紂王の言葉はどこか虚ろだった。
気にはかかっても、とにかく、今はそれを気にする暇がない。聞仲は、紂王をこの鹿台に据えたまま、あくまでそれを総帥とした商軍であるという格好を内外に表現していなければならない。
陽が暮れれば、戦いの報せも止む。その静けさが、妻と過ごす時間を思わせた。しかし、今、帰ることはない。戦時なのだ。
紂王の前では下せぬ命令も、ある。
周には、蚩尤を入れている。半年ほど前、ようやく渡りを付けられた。おなじ蚩尤の男が、ある日、売り込みにやってきたのだ。その男は聞仲が声を上げてしまうほど突然に、執務をする背後に立っていた。そこで、言った。
「聞太師であられますな」
若いのか年老いているのか、よく分からない男だった。ただ、西の者らしい、砂っぽい色の髪と瞳を持っていた。
「私は、商いをして旅する者です。お困りのようでおられるから、あるものを買っていただきたく、参じました」
そこで、蚩尤の存在を告げられた。遥か昔、中華に武の全てをもたらした者たち。その後裔は、遥か西の砂の国を拠点に、ものを売って旅をしている。
「彼らは、今なお、中華に憧れています」
と、男は他人事のように言った。
「私から、彼らに、千年の望みを叶える機会だと説きましょう。彼らの技は、かならず太師の役に立つ」
「見返りは、何だ」
と聞仲は問うた。何を対価にそれを買えばよいのか、この話では見えない。
男は、今まで聞仲が見たことのある誰とも違う表情をして、すぐに答えた。
「彼らの望みを、絶っていただきます」
「どういうことだ」
「千年の間、中華に焦がれ、いつまでも旅を続ける。それは、蚩尤が産まれたときから、その血がそうさせるのかもしれません。蚩尤の旅は、遥か西の国から東の海、北の凍土から南の森に向かうものではありません」
全て、中華に向かうため。中華に文物をもたらすことで、いつか、その中心に自分達がいることができるようになるのだと彼らは考えるのだと言う。
「妄想です」
と、男は笑った。
「だから、彼らを使ってやってはいただけないでしょうか」
「用い、その功のため、中華の者として認めよと。そういうわけか」
「そうお考えになるなら、それでよろしいでしょう。そのとおりになさるかどうかは、聞太師次第です」
「——いきなり軍に入れたり、吏にするわけにはいかん。しかし、蚩尤を方などではなく中華に根付く豪族のひとつであると認め、邑を拓くことくらいなら許せるだろう」
男の目が、意外なほどぱっかりと開いた。
「ほう。聞太師は、国というものを、よくご存知でおられる」
「どういう意味だ」
「いえ、戯れです。お許しください」
男はなぜか嬉しそうだった。そのことについて深くは言わず、あとは蚩尤の者との連絡方法などを伝え残し、消えた。使うかどうかは自分次第。そういう様子だった。それきり、その男を見ていない。たぶん、男もまた蚩尤なのだ。そして蚩尤というものがどのようなもので、それをどのようにして用いるべきなのか、即座に知った。彼は、それを伝えるために、自分の背後に立ったのだろう。
彼の手に、もし剣があれば。そう思うと、背が冷たくなる。
蚩尤の技は、やはり凄まじかった。試しに、商に従うふりをしながら周に通じていると目される豪族の長のもとに、一人を放ってみた。男の言ったとおりの方法で連絡を取ると、すぐに、これが蚩尤かと分かる様子の男たちが夜闇に紛れてやってきた。
その翌晩のうちに、殺せと命じた長は死体になった。邑は、三百の兵で守られていたが、長を殺した者を見た者は誰もいない。ただ、夜が明けた後、長の側近の一人の部屋から、べっとりと血のついた剣が見つかった。その者は、長が殺された日の朝、穀物の管理のことで厳しく叱責されていたのを見たものがあり、誰もが長を殺したのはその者だと信じ、邑の中心に引き出されて首を刎ねられた。
聞仲は報せを聞き、蚩尤の力について得た直感が正しかったことを知った。人をただこの世から消し去るだけでなく、誰が何のためにそれを欲するのかということまでも消し去ることができる。
今、豊邑にも、蚩尤を放っている。報せがあるというので、これからそれを受けるのだ。もしかすると、命じたことのうちのいくつかが、成ったのかもしれない。
目当ては、黄天化。黄飛。楊戩、哪吒。もしできるならば、呂尚。そして姫発。
これは、周には無い力である。それを使って勝てるなら、無駄な戦いをしなくて済むようになる。あとの蚩尤の扱いなど、どうにでもなる。紂王には、事後報告程度のことを済ませればよいだろう。
紂王は、こういうときでも変わらず妲己をしばしば寝所に呼ぶ。そうしていないと、不安なのだろう。どのような言葉を交わし合うのか、想像もつかない。おそらく、妲己は紂王と二人のときでも何ら変わることなく接するのだろうとは思うが、紂王はどうなのだろうか。
「——お前が兄のもとに帰る日は、遠くないのかもしれない」
紂王は、妲己の肩に頭を預け、獣脂の灯が自らの目の中に作る星を見つめながら呟いた。
「まあ。どうしてそう思われるのです」
はじめて妲己が商にやってきた日、天から舞い降りて来たのだとしか思えなかった。そのときと何も変わらない笑顔が、すぐ隣で咲いている。
「北も、東も、それ以上兵がこちらに進んでくることは、ないのでしょう?鹿台の女たちは、みなそう信じています」
中にはそうではなく、悲観的なことを言う者もある。しかし、妲己が紂王にそのことを伝えることはない。
「さあな。俺には、よく分からん。なるほど、どこから誰が攻めて来ようと、朝歌には聞仲がいる。間違っても敗れることはないのだろう」
「では、どうしてそれほどに心細げでいらっしゃるのです?」
分からない。だから、あいまいに笑うしかなかった。
「だいじょうぶ。皆、ここにいます」
まるで母親が稚児をあやすように、妲己は声を甘くした。
「西では、盂炎さまが。北でも、数えきれないほど多くの邑が。この朝歌には、聞仲さまが。皆、紂王さまのところにいます」
「お前もか」
紂王は、妲己の胸に顔を埋めた。その背を、ちいさく細い手が優しく規則的に叩く。
「はい。わたしも」
「そうか」
「はい。いつまでも」
「わかった」
紂王は、目を閉じた。しばらく同じ姿勢でいてやった妲己が、紂王の体がにわかに重くなったので眼を落とすと、しずかな寝息を立てていた。
——呂尚は、ほんとうに朝歌を目指してくるのか。
もしそうなったとき、自分はどうするのか。
紂王を捨て、兄のもとへ走るのか。
ふたたび、紂王に眼をやる。このところ髪にも白いものが目立ち、目尻や頬には年齢を告げる線が少しずつ刻まれかけている。それでも、なぜか、子供のようだと思った。
ふと、もしかしたら兄に似ているのかもしれない、と思った。
兄は、自分を覚えているだろうか。
かならず、覚えている。
自分は、いつも兄のことを思い出していられているだろうか。
毎日、そうしている。
だから、離れていても、心細くはない。自分で言ったとおり、皆、ここにいるのだ。ここにいて、誰もが、生きているのだ。
天化はどうしただろうか、と思った。自分のことを、とても好きなのだとすぐに分かった。そのことで、苦しんでいると悟った。だから、彼を生きさせるには、一度死ぬしかないと思った。
きっと、こういうことなのだ。
自分の、為すべきこと。
兄の姿を、思い浮かべた。昔どおり、渭水に向かって張らぬ糸を垂らしている背中だった。しかし、振り返った兄の顔は、やはり年齢を重ねていた。紂王のように白髪が目立つわけでもなければ、皺が走っているわけでもない。それでも、妲己の中の兄の姿は、生きる人と同じように歳を重ねていた。
会いたい、と思わぬ日はない。しかし、なぜか、寂しいと感じることはなかった。
そういえば、このところ、申公豹が姿を見せなくなった。
彼は、あらかじめ知っていた。戦いがいよいよ始まることを。たぶん、姫昌が死ぬことも。彼には、それを知ることができた。根拠はないが、そう思う。
兄が彼に命じ、なにかをさせるということは少ないような印象である。しかし、どこか、とても深いところで繋がっている。そう考えている。
彼が部屋に忍んでくるのは、たぶん、色々な情報をもたらすことで、兄が今どこで何をして、何を考えているのか教えようとしているのだ。
そうしろと兄が言ったのなら、うれしい。自分が、間違いなくここで生きているということなのだから。
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