恐れ
陽が傾いたので、調練は終わりになった。これから、夜営のときに素早く幕を張ったり、火を起こして煮炊きをする調練をする。そういう許可を
姞奭が、今日、調練のときに名指した者たち。それが、姞奭のさらに下に付く将校となってゆくのだろう。
人を見るのが、うまい。おそらく、自分などよりもずっと。天化は、単純にそう思っている。
城外の軍営から城内へと一人足を向ける天化がふいに足を止め、頭上の木に向かって声を静かに立てた。
「——お前か」
道脇の木から音もなく降り立ったのは、萌だった。
「今日は、よい日であられたようですね」
萌は片膝を地につき、薄く笑んだ。
「石の上におられる姿が、どこかいつもと違うように見えました」
「勝手に軍営に入ることを、許した覚えはない」
「禁じられてもいません」
萌はそう言って、無表情に天化のあとに付いて歩きはじめた。
「兵の皆様と打ち解けるのは、難しいものですか」
天化は、答えない。黙って歩を速めた。
「あの姞奭という方のことを、この数日、ずっと見ておられました。皆に慕われる者を尉官にされたことで、天化さまが過ごしやすくなられるとよいのですが」
「——萌、だったな」
「はい」
「従者にはせん。そう言っただろう」
「では、お館まで、せめて。門のうちに入られたら、あとは跡形もなく消えます」
萌は湯を含ませた布で熱心に体と髪を拭っているのか、はじめて天化の居館に押しかけたときに較べれば見違えるほど小ざっぱりとしていた。しかし、それはおそらく、臭いというものもまた気配になるため、それを消すためだろうと天化は見て取った。その証拠に、髪は綺麗に結い上げているように見えるが、油を塗り込んではいない。
だから、跡形もなく消えると言われても、ただ天化の視界に入らぬようにするというだけのことでしかないと思い、また屋根裏か、床下か、気配を消して付き従うのだろうとうんざりした溜め息をこぼした。
「人を知るなら、まず言葉を。黄尾の里では、そのように言ったそうです。天化さまも、兵らともっと話してみられればよいのではありませんか」
「おい」
天化が鋭く見下ろすと、萌は身を縮めた。
「小娘が、偉そうな口をきくな。斬ってしまうぞ」
「ですが、天化さまは、剣を封ずる紐を、ずっときつく縛ったままでおられます」
どうやら、萌にとっては、天化は恐れの対象にはならぬらしい。それよりも、己が見出した己のすべきことを逃すまいという思いの方が強いらしい。
「生意気な奴だ」
「天化さまは、どうして剣をそうして封じておられるのですか」
「お前に答える道理はない」
「その紐は、たいそう汚れています。きっと、長い間そうしたままなのですね」
「今ここで抜いてもいいんだぞ」
天化が少し凄んで見せたが、萌はやはり恐れることなく、むしろはっきりと目を合わせ、ぽつりと笑った。
「天化さまは、お優しい方です。その紐を絶ってまで、わたしを斬られられるとは思えません」
「なぜ、そう思う」
「調練を指揮せず、ずっと石の上に座っておられたのは、兵らのことをよく見るため。あの姞奭という方を殺さず、大きな怪我にもならぬ程度の薄傷で済ませたのは、傷つける気持ちがなかったから。そう見えました」
萌がそのように言うのに対して、天化がさらに凄味をきかす。
「そう思っていろ。くだらぬことばかり言うと、お前のその見立てが間違いだったと知ることになるだけだ」
萌は、天化の歩の速さにぴったりとくっついている。やはり、常人の身のこなしではない。しかし、おかしそうに喉を鳴らす様は、ただの少女としか見えなかった。
それが鳴り止んだとき、おなじ唇が、問うた。
「そんなにまでして固く剣を封じられたのに、なぜ、いつも剣を佩いておられるのです?」
天化の歩が、わずかに緩まった。なにか言おうとしたが止め、また足早になった。
「煩わしい小娘と、お怒りになりましたか。申し訳ありません。黙ります」
萌はなにも言わぬようになり、ただ後ろをついて歩くだけになった。
身のこなしや気配を消すことの巧みさは、さすが黄尾の者というところであるが、なにぶん歳が歳である。兄やほかの黄尾の者ほど、間諜であることが染み込んでいない。だから、つい好奇心の向くことを口にしてしまうのだろう。
萌からようやく——おそらく、いっとき——解放され、小さな荷の包みとともに別のものも下ろすことができたような感覚である。天化は大きな息をつき、薄闇になった屋内で横になった。
一人。火を入れることもない。
まどろむ。こういうとき、たいてい、その日あったことを振り返る。
兵らのこと。調練の指揮を自らしないのは、ただ億劫だからだ。面倒なことを引き受けてしまったものだ、と心底思う。
あの姞奭という者を大尉にしたのは、ものの分かったことを言うのならばお前が兵を束ねればよい、と思ったからだ。そのうち、姞奭がほんとうの将軍になり、自分の役目は免じられる。兵にとっても呂尚にとっても周の誰にとっても、その方がよいはずだ。
ただ、それだけのことである。それを優しいだの何だのと、うるさい小娘だった。
べつに、ほんとうに斬るつもりはない。ただ、鬱陶しいから脅してやろうと思っただけだ。泣いて逃げ出すとは思わないが、それにしても効き目が無かった。
何が、彼女をあれほど強く衝き動かすのだろう。
間諜のような者の出だと聞かされているが、あの身のこなしなど、はっきり言って薄気味が悪い。あれが間諜という者なのだとしたら、自分が想像するようなものよりもずっと恐ろしいものなのかもしれない。
かつて、自分が剣に生きていた頃はどうだったか、と思った。思ったが、思い返されるのはなぜか妲己の笑う顔や、市で珍しいものを見つけては声を上げてそちらに駆け寄ってゆく様などであった。
妲己。今も、もう一目だけでも見たいと思う。気がつけば、妲己のもとを去ってから、二度目の冬になっている。
べつに物にこだわる趣味はないが、胸の青い石は、どうしてもいつでも身につけていないと落ち着かない。今もこうして、胸の上でころころとした感触を奏でている。
兵らの中でも、珍しい石ですな、と声をかけてくる者がはじめの時にはあった。自分が、彼らの期待に沿うだけの人物でないと分かってからは、誰も声をかけてこない。自分が彼らに言葉をかけないのだから、当たり前だ。
生きよ、と妲己は言った。生きて、わたしを覚えていて、と。それは、天化にとってはこの天地でたった一つの愛の言葉であり、呪いでもあった。
この兵も、あの兵も、いずれ死ぬ。剣に生きていた頃は、死してもなお人の中に残るということがあるのだと信じていた。しかし、死とは、永遠の停止なのだと妲己との別れのとき思った。自分が死ねば、その日の自分で、永久に停止してしまう。それをいくら生ける人が思い返そうとしようが、自分はいつしか、時という煙の向こうに見える影でしかなくなるのだ。
死とは、そういうもの。
それを知ったとき、急に、死という、これまで何とも思っていなかったものが、恐ろしいもののように思えてきたのかもしれない。
だから、死と常に共にあらねばならない軍や、それを為す兵のことを見たり考えたりするのが億劫なのかもしれない。
兵らが石のことについて声をかけてこなくなった。それは、あの兵らの中で自分は生きていないのと同じものだからだ。互いに関心がないのなら、それは知らぬのと同じで、知らぬのなら、知りながら忘れ去られるのと同じではないかと思うのだ。
それを、恐れているのか。
いや、恐れはない。
そう思い直す。自分は、木槍で本気で向かってくる姞奭に、敗れなかったではないかと。あれが戦場であれば、姞奭の首は槍の柄とともに斬り飛ばされていた。いや、戦場でなくても、棒であのまま打ち殺してもよかったのだ。
では、なぜそれをしなかったのか。戯れのように首の薄皮を撫でただけで済ませたのは、なぜか。
横になったままわずかに身じろぎをしたら、胸の上の石が、ころりと動いた。それで、まどろみが少し遠ざかったような気がした。
ふと、思った。
萌は、この冬の夜更けを、どのようにして過ごすのだろう。もしかすると、また門のちかくに潜んでいて、手にあかぎれを作っているのかもしれない。床下ならば、寒風が吹き込むだろう。それでも、自分の前に出るために、どこかで湯を含ませた布で身体を拭い、髪を結い直すのだろうか。それができているときだけ、自分の前に姿を見せるのだろうか。
そういえば、自分が不思議に思うことをあれほど次々と口にして訊ねてくるくせに、この石のことはなにも言わなかったな、と思った。
次に一度瞬きをしたら、薄青い光が窓を塞ぐ板の隙間から漏れ入ってきていた。
胸の石に、少し似た色だった。深く眠ったらしい、となんとなく思った。
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