姞奭、尉官に任ぜらる

 天化の調練の評判は、あまり良くない。まだ軍営に出仕するようになって日も浅いというのに、さっそくに兵から不満が出はじめていた。

「将軍があのようでは、戦場において死あるのみだ。それも、将軍一人のみならず、軍そのものが危ない」

 と言う者があるのも無理はない。天化の調練といっても、自分は棒きれひとつを手にしたまま石に腰掛け、兵が武器を振るうのをただ見ているだけなのだ。

 たまに、手近な一人に、

「お前」

 と声をかける。兵がなにごとかと直立すると、

「槍に、向いていない。まず剣を使え」

 とだけ言い、また遠い目に戻るというようなことがあった。

 はじめこそ、かの名高い黄天化がようやく参軍したとして兵らは喜んでいたが、この調子である。調練どころか、天化そのものの評判自体がよくないと言える。


 萌の来訪を受けた翌朝も、天化は同じようにした。

「お前」

 兵が、また直立して返事をする。この間、剣を使えと言われた兵だった。

「槍に、向いていない。まず剣を使え」

 天化が言うのは、この間と同じことであった。

「黄将軍」

 兵が、上背のある天化を見上げながら言う。

「この間も、同じことを言われました」

「そうか。だから、どうした」

「私に同じことを仰ったことを、覚えておいでではないのですね」

「だから、どうした」

「そのような方の言うこと、聴くに値しません」

 周囲が、しんとなった。皆、ぎょっとした顔で二人を見ている。

「——そうか。槍に向かぬと思ったから、そう言ったまでだが」

「その前に、黄将軍はわが軍の将です。その将が、兵の顔すらろくに覚えていない。なにを話したかも覚えていないのです。いえ、我が軍の兵の数を思えば、ひとりひとりのことなど、いちいち覚えていられないのかもしれません。しかし、それ以前に、黄将軍は、兵のことに関心がないようにしか見えません」

 天化の表情は、変わらない。ただ、手にしていた棒を、だらりと下ろしただけである。

「では、問う」

「はっ」

「お前は、俺に、この前も同じことを言われたのに、なぜ剣を持たぬ」

「あなたの言うことを、聴くことはないと思うからです。私は、もう十年近く、槍の修練を重ねてきました。今さら、なぜ剣など」

「お前には槍よりも剣だと思うからだ」

「あなたは、私のことを知らない。知ろうともしない。そんなあなたに、私が槍よりも剣に向くかどうかが分かるはずがない。この調練のありさまを、どう思われる。黄飛大将の、もう一方の将軍である姫発様の軍と我々とでは、大人と子供の開きが出てしまっていますぞ。」

 そうだ、と声が上がった。この者はたまたま腹に据えかねてこのようなことを言うが、天化が見渡す限りのほとんど全員の顔に、同じようなものがあった。

「よい機会です。槍が向かぬかどうか、どうぞお確かめください」

 兵が、調練用の木槍を低く構えた。口々に野次を飛ばしていたほかの兵たちであったが、さすがに場の空気は凍った。

「その槍を、俺が打ち負かすことができれば、剣を持つことを始める。そういうわけか」

 天化は、棒を構えもしない。

「仰るとおりにします。しかし、私が勝てば」

「この軍の将は、お前だ」

 どよめきが走る。

「そのお言葉まで、お忘れになりませんよう」

 兵が、木槍に気を込める。刃こそ持たぬが、頭にでも当たれば頭蓋など簡単に砕けるようなものである。

「さあ」

 兵が、天化にも構えを取るよう促す。

「いつでも、いい」

 天化は心底面倒そうに溜め息をつき、手にしていた棒を適当に揺らした。

「あとで悔いられても、知りませんぞ」

 兵が青筋を立て、踏み込む。同時に、わっと歓声が上がる。


 その歓声が、すぐ止まった。

 からりと土を鳴らし、木槍が落ちていた。兵の手には、柄の部分だけが握られている。柄から叩き折られていた。いや、断面には折れた木材のささくれなど一片もない。すっぱりと切れていた。

 絶句する兵が深い息をようやく漏らしたとき、その首筋に、うすく赤い線が走った。

 天化の剣は、腰の鞘に入っている。柄と鞘は麻紐で縛られたままであり、抜いた形跡もない。

 手にした棒きれで、これほどの斬撃を放てるものか。この場を取り巻いている誰もが、その事実を信じることができないでいる。斬撃どころか、天化がどのように動いたのかさえ、知覚できた者はなかった。


「お前」

 天化が棒切れを放り捨て、脱力して四つん這いになってしまった兵に声を落とす。

「名は」

「——姞奭きせきと申します」

「姞奭。俺は敗れなかったから、お前が将軍になることはない」

 姞奭は、うなだれた。ほかの兵らは、自分たちが勢いのあまり姞奭に賛同するような声を上げてしまったことを後悔しているだろう。

 この時代、文字の使用はあっても浸透はしておらず、したがって成文法が出現するまでにはまだ長い時を要するが、もちろんこの当時にも社会規範などからなる慣習法はあった。彼らにとって軍の大将に背くのは、他人の家畜を盗むのと同じ重さの罪であり、すなわち死罪だった。

 体系化された法がないためにそれを履行する官吏もない。民衆間での諍いは、誰かが官に申し出、天化がずっと詰めていた市に人を集め、その罪と刑罰についての声を聴くというやり方であった。しかし、官吏の罪については王が一存でそれを処するし、軍における決定権者は大将だった。


 つまり、ここにいる兵のほとんどが、天化の剣を首に受けても文句を言うことができないというわけである。それをするくらいなら、として生半可な大将なら兵らが寄ってたかって打ち殺してしまうところであろうが、今の天化の棒捌きを見た上でそのような気を起こす者はない。

「お前に、命ずる」

 蒼白になった姞奭の顔が、上がる。死を受けることを、覚悟している。そういう様子であった。

「お前は、我が軍の大尉となれ」

 天化の言うことが理解できぬらしく、姞奭はぽかんとした表情でただ見上げている。



 大尉というのは現代の軍階級にもあることは知られているが、少なくとも春秋戦国時代にはそれがあった。もともと尉というのは王の直属軍を統べる者をあらわしたが、たとえば三國志くらいの時代になれば軍内のいち将校を意味するものに変わっている。

 その変遷について精密な史料をいまだ見ぬが、正直、この殷末という古すぎる時代の軍編成がどのようなものであるのかを完全に知ることができるには、まださらに長い時間をかけて研究と発掘の成果を待たねばなるまい。そこで、この物語の中では、大将が軍指揮をし、その下に局地における最高指揮官である将軍があり、その将軍の意志命令を、兵を実際に束ねる下級将校たちに伝達する役目を担うものを尉官とすることにしているので、そのつもりで理解されたい。

 余談が過ぎた。黄天化と姞奭のことに戻る。



「お前は、俺に勝ち負けを挑んだ。これが戦場であれば、いのちのやり取りということになる。俺が勝ったのだ。俺の言うとおりにしてもらう」

「——は」

 姞奭は口を開けたり閉めたりしながらなにか言おうとしているが、ほかの兵のどよめきにかき消された。


「お前は、兵の間で慕われている。まだ若いが、年長の者までお前のところに来て話をしたがる。また、お前は自慢の槍の技を惜しむことなく、年若の兵にも丁寧に教えてやっている。たぶん、お前のような者が、人の上に立つのに良いのだと思う」

 もちろん天化は将軍に任じられているわけだから、その下の人事について唯一の決定権を持つ。姞奭の唐突な選任の理由について、天化はそう述べた。

「わたしが、大尉」

 言葉の意味が、ようやく理解できるまでには自分を取り戻したらしい。明らかに、声が驚いている。

「そんな。私は、まだ二十を二つ超えたばかりです。大尉ならば、ほかにも黄飛大将の軍に古くから従っていた孟伯もうはくどのや、ふつうの倍ほどもある大きさの戈を小枝のように振り回す力自慢の荘翟そうてきなど、向いた兵はいくらでもおります」

「異論は認めん」

 それだけ言い、天化はまた定位置のようになっている石の上に腰掛けた。

「何をしている。調練ではなかったのか。兵らは勝手には始めてくれんぞ、姞大尉」

 ぶっきらぼうにそう言い、姞奭を促す。


「——よ、よし、皆さん。続けましょう。槍の者はこちらに。剣の者は、青勤せいきんどのを中心にして、そちらに。素振りを千こなしたのち、隣り合う者と向かい合い、打ち込みをします」

 はじめてのことに戸惑いながら、姞奭はそのように声をかけ、調練を取り仕切りはじめた。最初、兵らは顔を見合わせてなかなか動かなかったが、二人、三人と移動をはじめ、しばらく後には綺麗に二つに分かれ、声を揃えて素振りをしていた。

 天化はそれをぼんやりと眺め、ときおりあくびなどしながら、空をゆく鳶を目で追ったり足元の土に生える草の名を思い出そうとするなどして暇を潰した。


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