そこにある光
萌は、それからというもの、毎日、天化があらたに与えられた居館に出向いた。無論、その門が開くことはない。
「館など、寝起きするだけのものだ」
として小さなものしか所望しなかったが、それでも一人で使うにはいささか広い。そこに、ほんとうに眠るためだけに数日に一度だけ帰ってくるというような具合だったが、萌はいつ戻るとも知れぬ家主のために夜明け前から門前に出向き、夜更けまでそこに座り続けた。どれだけ寒くとも、雨であっても毎日そのようにした。そのため、手指にはあかぎれができ、髪も衣服も汚れ、物乞いのようになっている。
あるとき、ようやく天化が戻ってきたところに居合わせることができた。
「天化さま」
と、主となるはずであった者の名を呼ぼうとしたが、うまく声にならなかった。
「なんだ、汚い子供だな」
天化は、日が暮れて暗いため、それが萌であるとはじめ分からなかった。
「どけ。疲れているのだ」
「わたしを、お忘れでしょうか」
ようやく、掠れながらも声になった。天化は手にしていた火を萌に向かって翳し、少しの間目を細めていたが、やがて、
「お前、この前の小娘か」
と少し声色を変えた。
「従者はいらぬと言ったはずだ」
言い捨て、門扉に手をかける。その袖を、萌が鋭く捉える。痩せこけ、汚れた娘の動きと思えぬほど、それは素早いものだった。なにしろ、天化ほどの者が、自分の腕に向かって伸びてくる手を払い除け損ねたほどである。
「お待ちください」
「しつこい。離せ」
「かならず、従者にしていただきます」
「いい加減にしろ」
捉えられた袖を、乱暴に振るった。萌のあかぎれだらけになった手はするりと離れ、その勢いで体がよろめいた。
そのまま、後ろ向けに転んだ。
暖かい、と感じた。やわらかな光は、たぶん火だろう。山のことは伝え聴く中でしか知らぬが、山の里では、きっと多くの同族が火を囲み、身を寄せ、わずかな食べ物を分け合いながら冬を過ごしているはずだった。
山の冬は、厳しいものであるらしい。人の子の命くらいなら、かんたんに奪ってゆく。だから、人は寄り集まり、助け合う。もし冬というものが一人で向かい合える程度のものならば、人は群れず、助け合うことを必要としなかったろう。
「では、熊はなぜ一頭だけで過ごすのか」
兄の白が、流れ歩いているとき、そう言ったことがある。萌は、答えることができなかった。
「かんたんだ。熊は、一人で生きてゆけるくらい、強いからだ」
なるほど、と思った。
「人は、弱い。それを知らねば、山では生きてはいけない。そういうものだ」
兄は、山のことについて、それほど多くのことを語らなかった。妹だと呼ばれたこともなければ、兄と呼んだこともない。ただ、兄は若くして一族の長となり、自分は一族が里を失ってから産まれた、あまり者というだけだった。
自分がいなければ、一族が口にできるものは少しでも多くなる。一族の者は、自分に食い物を分け与えるため、自分はとても腹を満たすことのできないような量しか口にしない。
たとえば、ちいさな鄙を襲って、倉に蓄えられていた粟を手に入れたとき。縁もゆかりもない鄙にある粟を奪うというのは、たぶん、悪いことだと思う。だが、一族の者は、誰もが心から喜び、自分のところに来て、
「よかったな。これで、腹一杯食えるぞ」
と言った。
自分がいるために。
自分には、彼らのように旅人を襲ったり、鄙を襲って家畜や穀物を奪うことはできない。
子供だから。女だから。
自分がいなければ、一族は少しは楽になる。もし、人が助け合う生き物なのであれば、自分のすべきこととは、今すぐ消え去ってしまうことなのではないか。
ずっと、そう思っていた。
だが、豊邑に来てから、それは変わった。
剣。毒。弓矢。それさえあれば、自分にもすべきことができる。為せる。そう思った。だが、始まったと思ったそれはすぐにまた取り上げられてしまった。
そんな中、またあたらしい光が見えた。だから、絶対にそれを逃したくなかった。呂尚という偉い人間はとんでもない人でなしで、黄天化なる武人をその気にさせるだしに、自分を使っただけらしい。
ならば、と思った。
この光を、自分で掴み取ってやると。
いや、失いたくないだけなのかもしれない。
失うと感じるということは、すでに自分がなにかを持っているということなのかもしれない。そうであるなら、それは間違いである。自分は、何も持ってなどいないからだ。
それでも、思う。この光を、失いたくないと。
ちょうど、今見ているような光である。
あたたかい、と思った。
「——気が付いたようだな」
男の声がしたから、跳ね起きた。気を失っていたらしい。ここは、どこかの屋内。
少しずつ天地が色や匂いを取り戻してゆくにつれ、萌は自分の置かれている状況を知覚していった。
「申し訳ありません。気を失ってしまうなど」
「いや、俺としたことが、大人気なかった。乱暴を許せ」
床に這いつくばった姿勢の萌に、天化は静かな声を落とす。
「天化さまの僕となれと、言われました」
「知っている。要らぬ、とも言ったが」
「そうは仰っても」
天化は、萌に対して怒りを表したりするつもりはないらしく、黙って立ち上がって
「天化さま。そのようなことは、わたしが」
「お前は俺の従者ではない。ならば、お前は俺の家を訪ねて来ているのだ。家人たる俺が湯をもてなさねば、人の礼に
ぶっきらぼうであるが、こういう、人たる者の礼儀というところを気にするのは、さすが名門の長子というところだった。しかし萌にはそのようなことは分からず、従者ではないと冷たく言われたことが悲しかった。
「湯を一杯やる。身体が温まるまで、そこで眠っていてよい。ただ、夜が明けたら、出て行くことだ」
「いいえ。明日は、軍営までお供いたします」
「それは、許さん。そのようなつもりで、お前を屋内に引き入れたのではない」
「わたしは、誰が何と言おうと、天化さまの僕です」
「強情なやつだ。いいかげんにしろ」
萌がまた天化の袖を掴もうとしたから、天化がその手首を掴み返す。その節くれだった、剣によってできたまめが何度も潰れて固くなりきった手の力があまりに強く、萌は思わず顔をしかめた。
「——済まん」
天化は萌の手が傷だらけになっているのを見て取って、苦々しげに解放した。
「お前が何を思おうと、お前の勝手だ。だが、俺に従者などいらん。それは変わらん」
「では、勝手に付き従わせていただきます」
「迷惑だ」
「わたしがいると、知られぬようにします。影よりも静かにしています」
「そのようなこと、できるはずがない」
「では、三つ数える間、目を閉じていてください」
「子供の遊びに付き合うつもりはない。言ったはずだ、疲れていると」
萌の目が、真剣である。天化は溜め息をつき、言うとおりにした。
みっつ、と天化が声を上げ、目を開けたとき、萌の姿はもうそこにほなかった。
しばらくあたりを見回してみたが、どこにも姿はない。諦めて出て行ったものとし、衣服を替えて眠った。厨の火は、そのうちに消えると思い、そのままにした。
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