天化、軍にありて

己が為す

 冬を越す頃には、黄飛軍は正式に編成を終え、周軍を構成する一軍となった。

 大将を黄飛とし、副官として姫発。後代と違いその一つの軍内で兵を統率する役目であることを意味する将軍は、黄飛自身が任命することになるだろう。ほか、黄飛が連れてきた軍三千のうち、千を組み入れた。残りは解体し、楊戩軍、哪吒軍のほか、歩兵や弓隊、工兵隊、輸送隊などに編入した。


 黄飛軍の将軍として、ある者を加えるかどうか、呂尚は考えあぐねていた。いつものように李靖の鍛冶屋で剣の手入れをしてもらいながら、その話題になった。


「もう、一年でしょう。そろそろ、よいのではないでしょうか」

「心が戻らぬことには、いかに名ばかりがあっても何にもなるまい」

「では、呂尚どのは、いつまであのまま放っておかれるおつもりで?」

 李靖と、そのような会話をしている。


「中華に名の響く黄天化ほどの逸材を、腐らせてしまったのかもしれんな」

「天化どのと妲己さまとの間には、やはり——?」

「さあ、どうだろうな」

 呂尚は、多くを語らない。自分の目で見てきたわけではないからかもしれない。

「では、天化どのが心を失ってしまっているとして、どうすればそれが戻ると?」

「そうだな——」

 手入れの行き届いた剣をすこし火に翳して見ながら、呂尚は静かに言う。

「置き去ってきてしまった心の、その続きを歩むことができれば、あるいは、な」

「あたらしい女、ということでしょうか」

「まあ、言ってしまえば、そうだ」

 妲己と天化が親密になることは想定していた。天化を商から引き剥がすには、それしかないと。妲己と連絡を取ったことはないが、妲己は、見事にそれをやってのけた。

 その先のことは、呂尚にも妲己にも分からない。呂尚にしてみれば、天化のような頑固者を変心させるにはそれほどのことがなければ駄目だという着想が先にあり、引き剥がすことを優先せざるを得なかったからだ。また、妲己はべつに間諜ではない。彼女の心からの行動や言動が、たまたま呂尚の期待する効果をもたらしたに過ぎない。

 要するに、呂尚が思った以上に天化がだったというだけのことである。


 天化の心は、おそらく妲己のもとから一歩も動いていない。そして、剣に生きてきた武人としての天化は、妲己のもとどころか、もうこの天地のどこにもいない。身体だけがこの豊邑において小役人をしているという状態から脱却させるには、妲己を通して天化が見たであろう新たな己のその続きを、また別の誰かを通して見るほかないのではないか。


「ならば、一人、よい者がおります」

 李靖の目が、うっすら光った。このところ、こういう目をすることがある。

「ほう。お前に、女の心当たりがあるとはな」

「この鍛冶場で働く、黄尾の者」

 呂尚ももちろん、その存在は知っている。それがどのような仕事をしているのかまでは、李靖は具体的には明かしていない。

「その長の妹がおります。自分にも何か役目を与えろと、見かけるたびに言ってくるのです」

「ほう——」

 黄尾の長の、白の妹。それに、ホウという名を与えている。李靖は萌のことを、かんたんに説明した。


「ならば、さっそく、天化を黄飛軍の将軍とし、萌とやらをその身の回りの世話に付けてみようか」

 呂尚は、動かぬ釣り糸を眺めているような呑気な声色で言った。

「思いついたことを、口にしただけです。そのように簡単にお決めになって、よいのですか」

 仮にも、軍編成のことである。思い付きで進めてよいようなことでないことは、李靖にも分かる。しかし、呂尚は、それとは別のことを言った。

「そうだな。一個の人間の、心のことだ。軽々に、それも他者が決め付けるようなことは、よろしくはない」

 李靖が、熟考ののちの判断であれば、自分が萌を説得する旨を伝えると、呂尚は剣を鞘にしまいながら喉を小さく鳴らして笑った。

「問題なかろう。その萌とやらを、天化に引き合わせるぞ」

「しかし——」

「天化が妲己を強く想っているのは間違いあるまい。しかし、それは妲己だからか?」

 李靖が、訝しい顔をする。

「おれは、そうではないと思う。天化の前に、女としてあらわれた最初の人間が、妲己だったということだと思っている」

 つまり、

「その人間が、先にあるのではない。惚れたという事実があり、その対象が妲己なのだ」

 人の心の働きには、そういう部分がある。呂尚は、そう断言した。

 たしかに、彼の言うとおりとも考えられる。紂王その人が心を集めるのではなく、商の王であるという事実があるがために紂王は王として存在できる。中華最強の武人はべつに聞仲でなければならぬということはなく、もし彼がいずれかの戦場で流れ矢にでもやられて死んでいれば、今頃黄飛がそう呼ばれていたことであろう。


「黄尾の萌とやらは、相当に頑固者のようだ」

 李靖の思考がくるくると旋回しているとは知らず、呂尚はまた喉を鳴らした。

「頑固——ええ、そうでしょうな。少し、年は幼くあります。しかし、数年もすれば、誰もが振り返るような女となるでしょう」

 黄尾の者——この場合、黄尾山から来た一族、という意味の普通名詞的呼称ではなく、自らの間諜組織のうち、白を筆頭とする暗い仕事をする集団を李靖がそう呼んでいるという固有名詞的意味を指す——から外し、豊邑の城内でふつうに娘の格好をさせて過ごさせているが、今ですらはっとするような妖しさを見せることがある。たとえば天化と夫婦になるとか子を設けるとかいうことは今すぐには無理でも、二、三年もあればあるいは、と思えた。

「娘でありながら、仕事を与えろ、か。天化にぴったりではないか」

 呂尚は、こういう単純な目でものごとを見ることもあるらしい。あるいは、べつの思惑があるのか。李靖は必死に考え、少しでもその思考を共にしたいと思っている。しかし、ほんとうにしなければならないのは、呂尚のような頭脳と思考を持つことではなく、呂尚がものを見、考え、それを口に出すまでのを理解することだと思っている。

この天地の間で呂尚のような思考を持つ者は、呂尚一人しかいないか、いても極めて少ない。せめて、心のありかをいつも知ろうとし、そこに寄り添っていようとする者がいなければ、呂尚はほんとうに一人でものを考えていることになる。

その孤独は、おそらく、人にとっては死よりも恐ろしいものであろう。

「つくづく、底の知れぬお方だ」

 李靖は、そう口に出して笑った。呂尚はつられたように眉を少し下げて笑い、

「お前には、おれの見えぬ苦労を多くさせている」

 と答え去っていった。李靖の心情を汲んだのか、あるいは黄尾の者の働きのことを察しているのかは、わからない。



 少し日を挟んだのち、呂尚は萌とはじめて対面した。妲己とは似ても似つかない顔格好だが、中華の血にはない美しさがある。妲己が黄砂に霞むやわらかな陽を浴びて笑う花だとするならば、この娘は夏の陽を睨むようにして伸びる花だった。

「わたしに、為すべきことをお与えくださり、ありがとうございます。黄天化さまとやらのお世話を、命にかけて全うします」

 呂尚は、ただ苦笑するしかなかった。

 そのまま萌を伴い、市に詰めている天化のもとを訪ねた。


「これは、珍しい」

 天化は口ではそう言うが、呂尚が来ても誰が来ても、まるで興味がないようだった。黄飛と再会したときでさえ、かつての彼からは想像もつかないほど淡白な様子であった。

「天化どの。いや——黄天化」

 呂尚は、きりりと声を張った。

「周公姫昌さまに代わり、伝える」

 天化は、眉を少しひそめた。

「お前を、黄飛軍将軍とする」

「将軍——?」

「市番の任は、本日をもって解く。明日より、軍営に出よ」

 天化は、なにも言わない。

「不服あらばこの呂尚が、代わって聴く」

「いや」

「では、明日よりお前は、黄天化将軍だ」

「——俺に、今さら将軍のような真似ができると。あなたは、本気でそう考えているのか?」

「剣を取れば中華に双つ無しと知られた黄天化だ。なにか、不足があろうか」

「ここに来てから、剣など一度も振るっていない」

「それでも、お前は黄天化だ」

「——なるほど。実際の腕前よりも、ほかの国や豪族どもに対して押しのきく名を持つ者を寄せ集めようということか」

「どう思っても、構わない」

 天化の言葉遣いは、明らかに周公の代理人に対するものではない。しかし、呂尚がそれを咎めることはない。彼自身、これを茶番だと思っている。

「本日より、お前の身の回りの世話をする小者だ。名を、黄萌こうほうという」

「黄——」

 天化の表情が、はじめて動いた。どうやら、呂尚の後ろでかしこまっている萌の存在に、気付いていなかったらしい。

「なんでも、かの黄帝を祖とする一族の出だそうだ。同じ所以を持つであろうお前の従者に、程よいと思ってな」

 天化は、ぷいとそっぽを向いた。

「軍には、入ってもよい。しかし、従者はいらん」

 と言い、すたすたと立ち去ってしまった。


「呂尚さま。わたしは、役目を果たせないのでしょうか」

 取り残された格好になっている萌が、声を震わせた。

「そうでもないさ」

 呂尚は、天化の背を見つめながら答える。え、と上がる萌の眼に、視線を重ねた。

「お前がいたからこそ、天化は軍に入ってくれた。従者のことで押し問答になるくらいなら、今ここで軍のことだけ請けてしまった方が楽だ、と思ったのだろう」

「そんな——ひどいお方です、呂尚さまは」

「そう思ってくれていい」

「わたしは、どうすれば?」

「さあ。自分がなにか為したいと思うのなら、自分の好きにすればいいさ」

 両手を袖にしまい、また喉を鳴らしながら去ってゆく呂尚を、萌は唇を噛みながら見送った。

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