食うため
白は、豊邑の市にいた。
ここの吏として名物のようになっていた黄天化のところに妹の萌がいる、となんとなく思ったが、それ以上の感慨はない。
生きなければならなかった。そのために、一族の者をまとめ、導いていなければならなかった。それには、親だとか妹だとか、そういうものは不要だったし、邪魔だった。一族の者が我が親や我が子を慈しみ、守ることができるためには、自分はそれを捨てていなければならぬといつからか思うようになったのだ。もし、自分がもう少し年長けていれば、その必要はなかったのかもしれないと思うが、考えるだけ無駄だという思考が常に先にある。
十年以上、流れ歩いた。ずいぶん、汚いこともした。しかし、一族の者が食うためだった。山にいた頃は、獣を殺して食っていた。中華に出てからは、人を殺してもその肉を食わぬだけで、食うために殺すのは同じだった。
はじめ、言葉もよく分からなかった。旅人が、特徴的な中華の言葉で早口に何かまくし立てて来たことがあった。何か、怒りを表しているのかとそのとき思った。しかし、その者が運んでいた荷車を奪い、その者の死体を置き去りに道をゆくうち、あれは怒っているのではなく、命乞いをしていたのだとふと思った。
だから何ということはない。しかし、言葉を知ろうと考えた。荷車に載っていたもののうちのいくらかを手近な鄙に持ち込み、そこの人に言葉を教えてくれと身振りばかりで頼んだ。鄙の人は好意的で、身振りを交えて承諾の意を示し、一族が鄙のすぐ外れの森の洞穴に住むことを許可した。
冬が夏になるくらいの頃には、かなり中華の言葉が使えるようになっていた。一族の者は、滞在する間、日が昇れば鄙に出て家畜の世話や慣れぬ畑仕事などを手伝い、過ごした。
そのうち、言葉がかなり分かるようになった。多くの者は、言葉を知るつもりでなく、ただ鄙のことを手伝えばその日食うものが得られるからそうしていただけであるが、長たる己に限っては、鋤鍬の持ち方よりも言葉を特によく学んだ。
これからは、俺が、皆に中華の言葉を教えてやれる。あるとき、そう、一族の者を集めて伝えた。
これで、生きていける。中華の人は、田畑をよくする。漁もする。そういう営みで得たさまざまなものを運び合い、交換する。しかし、それには、まず言葉がなければならなかった。
鄙の長が、国の偉い人たちは、言葉をかたちにした、文字というものを使うのだと教えてくれたことがあった。それを知りたいと言ったところ長は笑い、あれは王か、それに近い者しか使わぬよ、として、代わりに、縄を木に結ぶことで意志を伝達する、世の中の誰もがする方法を教えてもくれた。
生きてゆける。食ってゆける。そう、安堵した。
一族の者もそれが分かったのか、大声を上げて喜んだ。
しかし、つぎの夜、鄙の男たちが、なぜか武器を手にして洞穴を襲ってきた。あとになって思うに、もしかしたら、あれは、蛮族である自分たちを憐れみ、あるいは珍しがり、労働力にもなってくれるとして留めおいてくれてはいたが、夜、それが首を揃えて集まり、自分達の知らない言葉でなにかを言い交わし、歓声を上げていたのを恐れたのかもしれない。
「違う。俺たちは、ただ俺がこいつらに言葉を教え、それを使って作物などを人と交換しようと話していたんだ」
何度も、何度も声を張り上げて、彼らに教わった単語を組み合わせてそう説明した。しかし、その言葉に耳を貸す者はなかった。
食うためでなく、殺した。そうしなければ、一族の者が殺されてしまう。
萌を、妹と思ったことはない。しかし、鄙の若い男たちが叫び声を上げながら洞穴を取り囲む気配に眠い目を擦る幼い萌を見たとき、やらねば、と思った。彼らが暮らす蟻の巣のような洞穴は、入り口で煙を焚かれればひとたまりもないと咄嗟に思った。山で、穴に隠れる兎を得るときなど、そうするのだ。
戦いは、すぐに止んだ。いや、戦いですらなかった。洞穴の周りには、鄙の若者たちの死体が、いくつも転がっていた。
闇が、白にべっとりとこびり付いた返り血を濡らしていた。そのまま、鄙の長のところに押しかけた。
長は、なにか言おうとした。それを待たず、一族の別の者が石斧でもってその頭を砕いた。そこに、どういう言葉も存在しなかった。
人がほとんどいなくなったのだから、豚や稗や麦など、置いておくだけ無駄だった。豚は人が餌をやらねば痩せて死ぬし、穀物も虫がついたり黴が生えてしまう。
だから、必要な分だけを、必要のなくなったであろう荷車に載せて立ち去ろうとした。もちろん、鄙に残された女子供や老人が必要とすると考えられる分は残しておいた。
去るとき、この鄙に滞在する間に懸命に覚えた言葉がいくつも降りかかってきた。
「この、野蛮人」
「夫を返せ、けだものめ」
「結局、盗みが目的だったんだ。恥を知れ」
村に残された、力なきものの声だった。
彼らの言う意味が理解できるのが、悲しいと感じた。
それ以来、中華の人とは必要以上に交わらぬようにしてきた。関わりと呼べるものを持ったのは、食料と少しの間寝床を借りられる場所がないものかと豊邑に流れ付いたときだった。その頃には、萌の手足はすっかり伸び、言葉も巧みに使うようになっていた。
萌には、中華の言葉を最も教えた。もう存在しない黄尾の言葉など、知っても無駄だと思ったからだ。
当人が望むのである。殺しだろうが毒だろうが、それをさせることに李靖がなぜあそこまで難色を示すのか、よく分からない部分もある。
だが、萌は今、黄天化の側人として存在している。剣で人を殺すことも、けだものと罵られることも、寝ぐらを襲われることもないだろう。
たぶん、萌は、中華の人として生きてゆける。周がこの先もずっと存在するならば、であるが。
自分のすることが、一体なんの役に立つのかは分からない。ただ、これまでも今も、食うため、生きてゆくため、存在するために何かをすることに変わりはない。
萌は、黄天化のもとで、それをするのだろう。
剣や毒は、自分が使えばいい。
そのため、この市に足を伸ばした目的を果たす。
また、間者である。
天化が取り締まりをせぬようになってすぐ、市の人の出入りは激しくなった。これまで、商いをするには、入ってくる際に届け出て、入り口の大木の枝に自分のことを示す固有の形に結わえた縄を結び、出てゆくときにそれを外すという慣例があった。しかし、李靖の話によると、縄の数と商いをする者の数が、明らかに合わぬようになっているのだという。
「——この干し貝と
渭水で採れる大ぶりな貝の身を干したものを売る者に、声をかけた。
「なんだ、麦じゃねえのか。稗なら、貝ひとつで五合。粟なら一合。一貨なら、貝二十個だな」
男は、日頃から河に出ているのだろう。よく日に焼けた肌をしていた。あまりに日を浴びているからか、瞳の色まで少し薄いようだった。
「もう少し、安くはならんか。貝一つで稗五合なら、俺は損をしてしまうではないか。俺が損をしたなら、俺はいったい何のために田畑をしてきたのか。こうしている間にも、俺の子は腹を空かせて泣いているんだ」
言いながら、注意深く男の様子を観察する。
「そうだなあ。お前さん、なかなかに上手いことを言う。分かった。貝一つで稗四合だ」
「まだ、高い。三合と五分なら、買ってもいい。あんたも、妻子を食わせねばなるまい」
「負けた。お前さんには負けたよ。わかった。言うとおりにしてやる。そのかわり、一つ多めに買ってくれよな」
もう、十分である。白は、顔色を変えることなく続けた。
「ありがとう。じゃあ、十一個もらおう」
「ありがとう。ちょっと待ってな」
「ところで、貝売りの人」
取引の支度を始める貝売りの背に、世間話の口調で言葉を投げる。
「なんだ」
「これは、どこの貝だね」
「なんだ、お前。この貝殻を見て分からねえのか。これは、渭水の中ほどでしか採れない、珍しい黒捷貝だ。この時期のものは身は厚く、滋養にもいい。この辺じゃ、こうして干し貝にしなきゃ口にできねえ代物だ。覚えときな」
「あんたのところでは、干さずに食うのか」
「そうさ。貝をこじ開けてだな、熱く沸かした湯を直接かけてやるのさ。そうすれば妙な虫も死ぬし、貝の風味も強くなる。湯がほどよく冷めたころには、その湯にまでこの貝の旨味がたっぷり出ているのさ」
「それは、美味そうだ」
「俺の在所じゃ、子供が集まればかならずこの貝を採りに出かけるのさ。だから、俺の在所の奴は皆、爺になっても体が強く、頭もしっかりしてやがる」
会話が、弾む。白は、もう目当てを付けきっている。
白だから分かる。この男は、渭水の中ほどの出などではない。言葉に、微妙に中華の者がせぬ発音が混じっている。北の言葉に似ていなくもないが、違う。だとすれば、西。なるほど、この貝は男の言うとおり渭水の中流域の名産である。しかし、西の言葉の訛りのある者が、そのようなところで暮らすはずがない。
「貝のことのついでに、聞きたいことがある。構わんか」
会話の続きという口調で、差し出された稗を桝で量る男の背後にまた回る。
男の手が、ぴたりと止まった。
白は、腰の後ろの短剣に、手を回そうとした。
稗の粒が、ぱらぱらと地面に散る。そのときには、男は白の身長くらいにまで跳び上がり、後ずさって身構えた。
「お前。周人ではないな。何者だ」
周りの人が、騒ぎに驚きの声を立てる。男は舌打ちをし、もう一度跳び、人ごみの中に溶けて消えた。
白が男を中華の者ではないと見破ったように、男もまた白のことを看過していた。
あれが、李靖が捜索を命じた間諜であると見て間違いない。
これまで、商の用いる間諜とは、ふつうの民間人か小役人が、利害のためにその役を担うというものばかりであった。しかし、あの者は違う。あの身のこなしは、ふつうではない。そして、こちらに向かって身構えたときに僅かに滲んで見えた、あの殺気。
あれは殺しをする者だ、と悟った。それをすることに、何のためらいもない、と。なぜなら、彼らにとってもそれは、食うための手段でしかなく、自分たちが山で獣に弓矢を向けるのと同じことでしかないからだ。
取り逃した。それが、悔やまれる。ひとまず、李靖のところに戻って報告をしなければならない。
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