戦うには

 南の豪族の中で、豊邑に攻め上ろうとする者がある。南とは、呂尚の施策により開拓を許された者たちである。その一部に、自分たちは南のものを北に運び、それで豊邑は利益を受けているはずなのに、その代償が荒地や森の開拓であるならばそこで得たものに税を課するのはおかしいと声を上げる者が出てきた。


 これまで、このようなことはなかった。

「商の、差し金でしょうな」

 李靖からの急報を受けた呂尚が軍議の場で呑気に言う。

「出ましょうか、呂尚どの」

 楊戩が発言する。

「我らの機動力をもってすれば、その叛いたという毘胡里びこりまで十日。鎮圧するとしても二十五日後には戻れることでしょう」

「なんだ、なんだ、楊戩どの。手柄を、独り占めするつもりか」

 哪吒が、騒がしくまくし立てる。哪吒の副官は慌て、自分の主の声の大きさをたしなめている。

「いや、騎馬は使わん」

 呂尚が、一座を見渡して言う。

 周軍も、かなり大きくなった。こうして、大将とその下の将軍を集めて軍議を開くなど、少し前までなら考えられなかった。

 北や西なら、同心する豪族を使うのが通例である。しかし、南には、それがない。反乱の気配があるのは南に引き入れた豪族のうちのごく一部であるとはいえ、ほかの豪族にその鎮圧を命じるには、まだ早い。だから、豊邑から軍を直接出すしかない。


 そもそも、叛乱の気配があるのは、ほんとうに南の豪族のごく一部なのか。そう思って南に入ったら、実は四方八方が敵でしかなかったということにもなりはしないか。

 そういうことを、呂尚は訥々と語る。

「それに、南は、木が多い。馬では進みにくかろう。森の中、馬を進めることに専心すれば、矢の的になるだけだ」

 なるほど、と一座は呂尚の言葉を待った。周公である姫昌はさらに身体が優れず、軍議に出ることは叶わないから、この場での最高位はしょうである呂尚である。


「黄飛どの。頼めるか」

 じっと話を聞く間、閉じられていた黄飛の目が、ぱっと開いた。

「それがしに、ですか」

「不服か」

「滅相もない。蛮族どもに、姫昌さまより賜ったこの宝剣の切れ味を見せてやりましょうぞ」

 大音声を上げ、豪快に笑って立ち上がるその脇には、やはり将軍である天化が物憂げな顔をして座している。

「まあ、逸ることはない。中華にその人ありと知られた黄飛と黄天化が父子そろって出戦するのだ。できるだけ、ゆっくりと、その威容を見せつけながら進軍してほしい。それだけで、叛乱はむ」

「これは、どうにも気の優しい。なあに、あのような蛮族どもなど、一捻り——」

「黄飛」

 呂尚のうっすらとした、それでいてよく透る声が、黄飛の発言を制した、

「どうしても、戦わねばならないときだけ戦う。それでよいのだ。そのように手配りもするつもりだ」

「それはまあ、そうでしょうが」

「それに、彼らは蛮族ではない」

 黄飛はさすが、それだけで自分の失言に気付いたらしく、顔を真っ赤にして身を縮めた。

「彼らは南の出。されど、彼らもまた周人しゅうひと。この黄飛、まだ姫昌さまや呂尚どのの言う国の姿を、よく見ることができておらぬようです」

 呂尚はなにも言わず、ただ目を細めて見せることで応えた。


 大きなため息をつく音。一座の視線が集まった先には、天化。

「どうした、天化。お前も将軍なのだ。存念があれば、言え」

 呂尚が声を向けても、天化は答えない。

「相国が仰せだ。応えねば、貴様を断じるぞ、天化」

 黄飛は実の子だから、ことさら天化に厳しくしようとしているらしい。これが甘ければ示しがつかぬのだろうが、当の天化はそれをも無視した。

「腑でも抜けたか、天化。ならば、軍など辞めてしまえ。姫昌さまには、我が首でもってお詫びをするわ」

 黄飛がかっとなり、怒声を発する。

「まあ、そう大きな声を出すものでない」

 呂尚は呑気な口調でそれを止めた。

「戦う理由がない。そう思っているのか」

 天化をまっすぐに見て、問うた。天化はまた短いため息を漏らし、ようやく口を開いた。

「そのとおりだ。なんのために、戦うのか」

「それは、この戦のことか。それとも、お前自身のことか」

 呂尚の言葉に、天化はわずかに目を逸らした。剣での立ち合いなら、気負けというところである。


「人は、なぜ戦うのか」

 呂尚は今さら考えるように顔を少し上げ、天化に向かって吐いていた言葉を遠ざけた。

「なぜなのだろうなあ。古くから人は戦い続けてきた。そして、人から、多くのものを奪い続けてきた」

 一座は、呂尚の方をじっと見つめている。こういう話し方のとき、なにかとても新しいことを言う。それを、知っている者ばかりである。

「はじめ、もしかすると、射落とした一羽の鳥の取り合いだったのかもしれぬ。一粒の麦の奪い合いだったのかもしれぬ。しかし、人は、人から、かならず何かを奪い、ときには武器でもって相手を制し、その持つものを我が物にしてきた」

 当たり前のことを言う、という顔をしているのは、天化ひとりである。呂尚はもう天化のことなど見えていないかのように、さらに口調を早めて継ぐ。

「思えば、商もまた、かつてであったこの中華を奪い、我が物にした。おれたちは、その商を奪い、我が物にしようとしている。しかし、おれは思う」

 なにを、と天化の眼が気だるげに動く。その先にある呂尚は、南西から差し込む陽光に目を細め、さらに言う。

「奪うのは、奪うためではないと」

 呂尚の言うことを理解できる者は、ここにはいない。そしておそらく、中華のどこを探しても。なにしろ、当の呂尚自身が、その続きはない、という具合に陽光から天化に眼を戻し、うっすら笑んでしまっている。

「奪うためではない——」

 呂尚の長話が始まってからはじめて、天化が口を開いた。遥か遥か南の国には、人の言葉を繰り返して話す色鮮やかな鳥がいる、と申公豹が言っていたことがある。自分の言ったことを繰り返す天化を見てその鳥のようだ、と呂尚は思った。


「奪うためでなければ、何のために。剣で人のいのちを奪うこと以外、何ができる」

「剣で、人を守る。そういう使い方も、あるのだ」

 黄飛が口を挟んだ。自身の剣に刻まれた銘に感涙を流していたから、彼には奪う以外の戦う理由があるということになるだろう。この老雄は、おそらく商を離れ、豊邑にやってきたとき、それをあたらしく見出したに違いない。しかし、それを天化は受け付けようとしない。黄飛が見出したものはあくまで黄飛の天地の中にだけある理屈だから、この事実だけをもってして天化の目が昏いと非難することはできない。

「人を守るだと、父上」

 実際、天化は露骨に嘲笑を浮かべている。

「人を守るため、べつの人を斬る。そうすれば、その者のいのちを奪うことになるではないですか。死は、もうそれ以上のものを産まぬ。すべて、そこで終わるのだ」

 天化の声が、露骨に大きく、高くなっている。呂尚は座に戻り、もともと眠そうな目をさらに細め、ただ聴くだけの存在になった。

「お前は、まだ若い。しかし、これは軍議だ。決まったことに異を唱えることは許さん」

「戦いには、出ますよ。さきほど、呂先生が、我らが威容を見せつけながら出てゆけば戦いにはきっとならぬと仰った。ただ歩いて南までゆき、帰ってくる。それだけの仕事でしょう」

「貴様——」


「なあ、天化どの」

 青筋を立てた黄飛が拳を振り上げかけたそのとき、哪吒の声がぽろりと転がった。難しい軍議のときは力でねじ伏せろだとか、俺が出て大将の首を刎ね飛ばしてきてやるだとか単純なことしか言わず、あとは受動的に議論が進むのを見ているという具合だから、珍しいことである。

「だから、あんたは剣を抜かないのかい」

 天化の顔が、紅潮してゆく。怒りなのか恥じらいなのか、誰にも区別がつかない。

「そんなに、固く縛っちまってさ」

「うるさい。お前などに、関わりのないことだ」

「そりゃあ、そうさ。だけど、あんた、軍人だろ。嫌なら、今すぐ市の役人にでも戻っちまえばいいんだ」

「黙れ。たいした考えもないくせに、喜んで槍など振り回している野猿ごとにきに、何が分かる」

「分かるさ」

 哪吒は天化の挑発に乗らず、静かに続けた。なぜか、その声は秋の朝の池の水のように藍色だった。

「俺は、自分のためになんて、ただの一度も槍を振るったことはないからさ」

「自分のためでなくて、何のために槍を振るうと言うのだ」

「たとえば、お袋さ。鹿台に取られた親父のぶんまで、俺をずっと育ててくれた。あとは、兄哥あにき。どうにかして、たすけたいと思ってる。楊戩どののことも、李靖どののことも、姫昌さまや姫発のことだって」

「それが、何だと言うのだ。槍を敵に向け、その首を斬り飛ばすことが、人のためだとでも言うのか」

「そうだな。いや、でも、ちょっと違う。うまく言えねえや」


 哪吒が曖昧に笑って引っ込んでしまったので、一座に妙な沈黙が流れた。吊られて困り笑いを浮かべながら、楊戩がそれをまとめようとする。

「今すぐ、何かを決める必要はない。ただ、おのおの、自分の役目はしっかり果たそうではないか。黄飛軍が出る。天化どのも出る。そうしなければ、叛乱が広がり、取り返しのつかぬことになるのは明らかなのだから」

 呂尚が楊戩を見て、頷いた。楊戩もそれに応えた。呂尚の内心があの頃と何も変わらぬと知り、安堵したのかもしれない。

「ただ、俺にもひとつ言わせてほしい。構わぬか、天化どの」

「好きにしろ、楊戩」

「たとえば南で叛乱を企てている者ども。それが、お前の大切な人から、何かを奪おうとしていたら、どうか。それでもお前は剣を抜かず、まだなぜ人が戦うのか、などと苦悩し続けていられるのか」

「べつに、苦悩してなど——」

「いや、いいのだ。そのとき、おのずと答えは出るのだから。今、言葉でそれを述べることこそ、無意味だろう」

 楊戩は、抜群に剣の腕が立つ。軍の指揮も上手い。さらに、性格が落ち着いている。まとめ役に、これ以上の者はない。呂尚が、さらに目を細めた。たぶん、喜んでいるのだ。


「さすが、楊戩どの。この愚息が軍にあること自体が間違いでありましょうが、かならず更正しますゆえ、お許しくだされたい」

「黄飛どの。そのように仰るものではない。あなたの、実のお子ではないですか」

 楊戩と黄飛は、いちどほんとうに命をかけて戦っている。それだけに、いざこうして同じ周人しゅうひととなれば、通じ合うものが大きいのだろう。

 ほう、と内心、呂尚は喉を鳴らした。これもまた、こういう場にならねば見えぬものである。

「いや、今日はよい日だ。軍議のことだけでなく、とてもよい話が聞けました」

 黄飛軍の副官である姫発が大声で笑った。この若者が笑うと、場の空気が一気に変わる。

 あとは、出戦の準備や日取りなどについて話し合い、散会になった。


 途中、天化が口を出すことはなかった。ただ、じっと考えている。

 もし、敵と呼ぶものが、自分の大切なものを奪おうとしてきたら。大切な人を、奪おうとしてきたら。

 そうなれば、どうなるのだろう。

 考えるだけ無駄だ、と彼は途中で思い、ただ軍議の場を行き交う言葉をなんとなく追うだけに留めた。


 ——考えるだけ、無駄だ。俺に、そのような人は、もういないのだ。

 乾いた唾を飲み込むとき、ただそう思った。

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