周人、啓明を見る
閑話休題、結縄
例によって、物語の本筋にまるでかかわりのないくだりであるから、先を急がれる方は読み飛ばしていただいて構わない。
この前のくだりで少し触れた、文字を持たぬ時代の人の意思表示についてここでは述べたい。
よく知られるのは物語にあったとおり、
易経という書物には、「かつての古い時代には、人々は縄を結び、それでよく世は治まっていた」という記述があり、「のちの世の聖人は、それに
あらゆる作為を排除した先にこそ道(真理とも、理想的な国や個人のありようとも)があるとする老子などにも、この頃の世の中が最も良かったのだと説くくだりがある。また、老子の中でも有名な「小国寡民」というくだりには、(作意的な政治や文字なんてものは余計だから排除してしまって、)民にはまた縄を結ぶことを用いさせればいい(それこそ理想の治世だ)、とするくだりも見える。
老子についてはまた別の時間と場所において語る機会があればよいと思うが、ここで取り上げたいのは、太古の時代においては人は文字を用いないかわりに木を彫ったり縄の結び目を作ったりして他者に意志を伝達していたのだということであり、この物語から後の時代においてもわりあい知られていたということである。
さらに不思議なことに、世界のあちこちに、この風習はある。有名なものでは文字を持たぬ文明であるインカ文明におけるキープ(そのまま、結び目を意味する)で、羊の毛を用いた紐や縄の結び方や、ねじれを加える方法などにより、大量の情報を精密に記録していた。主に税の管理など、行政面において用いられていたようであるが、すなわち単に紐を結ぶ、捻るというような原始的な動作が、実はそういう統計的な情報を文字に拠らずに記録することができるほどのものであるということが知れる。
ほかにも、たとえば宗教的儀礼において用いられた。日本で暮らしていれば誰もが知る数珠など、今でこそ葬式や法事のときの装飾品のように考えている人があるが、元来、あれは玉を手の中で回すことで念仏の数を数えるものであり、わりあい熱心な浄土宗徒である筆者の実家では、二連になって二つぶら下がった房にもまた小さな珠のついている数珠を使い、法事の度ごとに和尚とともに念仏を唱えている。
玉に触れて祈りを数えるというのは仏教のみならず、たとえばヒンドゥー教、ユダヤ教、イスラム教にもあり、それらは紐や布の結び目をもって行うものが多い。もし、世界史的に見てそれらに共通点があるとするならば、もしかすると我々の用いる数珠も、遥か昔においては紐に結び目を作ったものが起源であるのかもしれないと思う。
その正誤はさておき、結縄というのは数的なものと親和性が高いらしい。
古くはエジプト文明において、彼らの持つ精密な測量技術が、結び目を作った縄によるものであることは知られている。
こちらはあまり知られていないが、メソポタミア文明においては領収書を示す語と結び目を示す語が同じであったり(それ以前にメソポタミア文明において領収書があったことが驚きだが)、とにかく数的なものに関わりが深いことは間違いない。
では、単に数の情報を扱うときにしか用いられなかったかと言うと、そうではない。
結縄は、特に東アジアにおいて、言語的情報の伝達のためにも用いられていた。たとえば今我々が日本と呼ぶ領土の中だけに目を絞っても、アイヌや琉球文化のみならず、本土においてもわりあい近年まで結縄が用いられていた形跡がある。それらはたいてい、他者に向かって何らかの意思を表示する目的で縄を結び付けておくというもので、たとえば看板や標識、駅の伝言板のような役割を持っていたとする説もあり、中には音価や音節との関連性が見られるものも調査により発見されている。
我々は、文字に依存している。そう述べるこれもまた、文字である。中国においては、孔子が結構な実証主義(と言えば語弊があまりに大きいが)で、たとえば文字の産まれる前の文化を物語るはずの神話などを好まなかったため、歴史のメインストリームにおいては、そういう古い風習が一度廃れた。さらに始皇帝の焚書坑儒(書物を焼き、儒教をする者を穴に埋める)という世にもおそろしい政策により、その孔子の体系化した思想もまた一度は絶滅の危機に瀕したのであるが、幸い、孔子をはじめとする学派の先人たちは文字が大好きであったため、自分の創作物や彼の弟子たちが語ったことなどについては復活を遂げた。代わりに、彼の好まなかった太古代の《ことば》は、山海経という書にあちこちの民話、神話が蒐集されているなどの例外はあるにせよいっそう失われてしまった。
四千年の歴史がありながら、神話がない。もちろん、日本における神武東征や天孫降臨、国産み、ヤマトタケルとヤマタノオロチのようなエピソードは散発的にたくさんある。しかし、日本ではそれらはいちおう「歴史」のはじまり、あるいは歴史が体系を持つその前の物語として認識されているのに比べ、あまりにも歴史から除外されすぎているように思う。
もちろん、歴史というのは実証的な学問である。だが、大陸においては、その概念が発生するのがあまりにも早かった。だから、いちおう中華史の永遠の基準点である「史記」にも、伝説の五帝以前の物語は収録されなかった。その五帝のくだりも、歴史を編むための起点としてやむなく採用したという印象を受けるのは、筆者だけではあるまい。
べつに、文字を持たぬことばについて、センチメンタルな憧憬を持ちたいわけではない。ただ、上古の時代には今の我々のように神々がこの地上で賑やかにやっていた、今も八百万の神はそこここにいるという無意識の感覚を持つ我々よりも、人類として洗練されたと言える文化を早くから享有してきた大陸の人々の方が、より写実的で実証的だということが言えるだろう。
付け加えておくが、中国において人々に親しまれている神がいないわけではない。だが、それらの多くは唐代以降、特に道教が発達してから(まさに封神演義もまた道教と深すぎるほどのかかわりを持つ)この世にあらわれた神々である。
ここで、想像を重ねてみる。
文字、言葉というものは、おそらくこの物語においても何かしら小さくない意味を今後持つことになるだろう。
彼らは今、まさにその過渡期にいる。王侯の類は、すでに祭祀の記録として文字を用いてはいる。しかし、彼らの多くは、まだそれを知らない。文字というものが日常的な情報を記録伝達するための道具になる段階には、まだ至らぬのだ。
彼らはやはり、縄を結び、木を掘り、それでもって他者に意思を表示する世界にいる。
しかし、現代にも通ずる、この世の森羅万象の全てが文字によってあらわすことができると人が確信する世はそう遠くない。少なくとも、この物語の数百年後にはそのようになり、千年後(三國志の時代、と考えていただいておおむね差し支えない)には全くそのとおりになる。
その役割において非常に重要な位置にあるのが、こののち成立する周王朝なのではないかと筆者は考えているから、そのあたりについても物語の端々に、あるいは主題の中に、たとえば薬味のようにして、またはメインディッシュとして提示してゆくつもりである。
散文を楽しむあまり、言葉が過ぎた。
この続きについてはまたいずれ語るかもしれず、語らぬかもしれぬが、とにかく続きのことをあらわす。
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