星明かり

 萌の毎日は、いそがしい。

 ほかの黄尾の女や老人が暮らす館の一室を与えられてはいるが、あまりそこに居ることはない。帰ってくるのは、衣服や髪を整えたり、湯で体を拭ったりするときだけだ。

 たいてい、天化にへばりついている。へばりついていると言っても彼女の気配の消し方は尋常なものでなく、あの天化ですら存在に全く気付かぬまま過ごす日があるくらいである。

 気付いても、天化が話しかけることは少ない。ただ、気付かれた、ということに萌が気付くことは多い。


 自分は、天化のしもべ。そう思い定めている。だから、天化がそれを受け入れないのを、歯痒く思っている。

 なにか、天化の助けになるために役立つ秘訣はないか。そう思い、天化が軍議に出ている間、彼が長く吏をしていたという市にやってきた。

 そこで、白を見た。彼女にとっての白は、ただ族長の白だった。しかし、一見すればほかの人に紛れ、それを見止める者はないであろうが、萌にははっきりとそれが白であると判じることができた。

 山の者が山林の中で、互いの姿が見えぬときに意志や自己の存在を伝達するときにする、舌を巻いて口蓋に当て、それを勢いよく弾いて「かっ」と音を発するやり方で、呼び止めた。


「——お前、なにをしている」

「お前ではなく、萌です。長」

 白の前では、萌は黄尾の者だった。しかし、剣を手にしていた頃にはない、萌という名があった。

「そうだった。萌。黄天化様の従者になったと聞いたが」

 並ぶでもなく、ともに歩く。話すでもなく、言葉を交わす。人混みに紛れるときはそうするのだと、かつてこの族長に厳しく教えられた。だから、無意識にその通りにしていた。

「今日は、天化さまは軍議に出ておいでです。その間に、使いの用を済ませなければならないのです」

 このかつての族長に対して背伸びをしてどうする、と思ったが、天化の従者になることを命じられたはいいがそれは天化が参軍するための口実にすぎず、当の天化は自分を激しく拒絶していて、だからしつこく付き従っているのだとは言えなかった。

「そうか。うまく、やっているようだな」

 白は、それだけ言い、表情を全く変えず、人混みの向こうを見つめたまま歩を速めて萌の前から去った。


 どこに向かっているのだろう、と思った。思った途端に、あとを尾けていた。幸い、白はまだ気付いていない。

 市を出た。西の外れから城壁にかけては、街路にも人通りが少ない。白は、一人の男を尾けているらしい。あたりに人がいないと確信したとき、おもむろに尾行の相手に向かって声を発した。

「おい」

 白が尾行していた男は特に驚くことなく、ゆっくり歩を緩めた。

 一陣の風。たぶん、黄尾の山の冬に吹く。それが男の背を襲った。そう思ったが、ほんとうは白が低く跳び、剣を抜いて斬りつけていた。

 あっと声を上げそうになったが、こらえた。

 白の剣は、振り向きざまに応じて鞘半ばまで抜いた男の剣に受け止められていた。


「後ろから襲うなど、礼を知らぬと見える」

 思ったよりも、声は若い。日に焼けているのか、肌の色が浅黒い。

「——同道してもらう。そう言うつもりだったが、やむを得ん」

 白が、剣を低く構え直す。斬る気だ、と萌は思った。遠くからでも、それが白が一撃で相手を葬るときにする構えだと分かったのだ。


 一合、激しく剣が鳴る。二つの体は、入れ違って静止した。

 白の手。握られている剣は、ほとんど柄だけになっていた。斬り飛ばされたものらしい。萌は、李靖が自分に殺しの仕事をすることを禁じて、ほかの黄尾の老人や女とともに暮らす間、しばしば訪ねてきて、何ともない話をして帰ってゆくことがあったことを思い出した。その中に、青銅かねというのは不思議なもので、同じ青銅でも、温度や鋳込み方、冷まし方によって仕上がりに違いが出るのだという話があった。

 しかし、これは、果たして青銅の仕上がりの差だけか。黒い肌の男が、白よりも強いからということはないか。

 思った途端、身体が勝手に動いていた。


「誰だ」

 萌が咄嗟に投げた石礫が、男の額を打った。

「萌か」

 白も、さすがに驚いているらしい。

「長。こいつが何者かは知りませんが、このまま斬られて死んでしまわれるのを、見ているわけにはいきません」

「よせ。お前の手に負える相手ではない」

 白が、もう一本腰の後ろに備えていた短い剣を抜くが、それより前に萌は男に向かって跳躍していた。

 男は応じ、剣でもって萌の首を斬り飛ばそうと振るった。しかし、萌の身体は蝸牛かたつむりのように柔らかくしなり、大きく仰け反ってそれをかわす。

 着地。土が鳴る。さらに、それが沈む。

 右拳。溜めきった膝とつま先の力で、跳び上がるようにして繰り出す。


 男はよろめき、足をもつれさせて仰向けに倒れた。

 それに向かって残心を示す萌の拳には、先程投げて転がった石礫が握られていた。これで、男の額を打ったものらしい。べっとりと血のついたそれを手にしたまま、男に歩み寄り、その手から離れて落ちている剣を蹴って遠ざけた。

「あなたは、誰なのです」

 振り下ろそうと思えばいつでももう片方の目に石を打てる。そういう姿勢で、しずかに言う。

「よせ。萌。離れるのだ」

 白が駆け寄り、萌を引き離す。

「こいつは、西の者だ。我らとおなじく、いろいろな部族があるらしいが、この者らは中華において特に殺しの腕を振るって生きている」

 男は額を打たれたというのに声ひとつ立てず、白の言うのを聞いてただ不敵に笑っている。

「さいきん、このような者が豊邑に多く入っている。俺は、それを探っていたのだ」

 白はそこまで言って、もはや萌は黄尾の任務と関わりのない生にいると思い直したのか、続けるのをやめ、さあ、主人のもとに戻るがいい、と短く促した。


 萌は石を捨て、足を返そうとした。しかし、ある着想を得て踏み留まった。

「長。その者を、どうなさるのです」

 答えない。この場になってなお笑っているような男である。尋問しても意味がないと判断したのだろう。

「すこし、わたしの思う使い方に、用いてみても?」

「なにを言っている」

 萌はにんまりと笑い、兄の手からするりと剣を抜き取った。もう片方の手には、兄が簡易な尋問をするときに用いる、をも腰袋から抜き取り、握っている。

「よせ」

 白は、萌が野鼠のように素早い動きをすることを、忘れてしまっていたらしい。色には出さぬが慌て、それを取り返そうとする。

「長にとっても、悪いようにはなりません」

 ひらりと宙返りをし、嬉々として男のそばに屈み込む。



 影が長くなりかける時間になった。

 萌は、すっかり大人しくなった男を従え、足取り軽く市裏の街路を歩いている。

「——驚くべきものだった」

 白が、みじかく言う。

「長に、教わったとおりにしただけです」

「いや、俺はあそこまでのことは——」

 萌がちらりと男の方を振り返ると、男はふらついた足取りを強張らせ、恐怖をあらわにした。見た目には、石で打たれた傷以外に変わったところはない。しかし、萌の用いた黄尾秘伝の道具——もともとは獣の皮を剥いだり、関節を解体するときに用いた道具なのだろう——は、凄まじいまでの効果を発揮したらしい。

「教わったこと以外のことなんて、できようはずもありません」

 萌は白に視線を戻し、にっこりと笑った。


 影が長くなり、やがて夜に溶けた。

「さあ、言ったとおりにするのですよ。この道を、あの方が通ります」

「萌。やめておく方がよい」

「長には、かかわりのないこと。でも、用が済めば、この者のことはきっと助けてあげてくださいね」

「——わかった」

 さきほど、兄の道具をふんだんに使ったとき、わたしに考えがある、として男になにやら耳打ちをしていた。男は、それをすればほんとうに、これ以上痛いことをせぬか、と子供のような泣き声で言った。

 白が見ても、ぞっとするような黄尾の技である。彼らに拷問ができるのは、道具のためではない。それを扱う技術があるためだった。もちろん萌にもひととおりの技術と知識を授けはしたが、一人で実践するのははじめてのはずである。

 これほどまでの才があるなら、それを無理に禁じた李靖の考えには、なにか間違いがあるのではないか。そうも思ったが、李靖は自分などよりもよほど多くのことを知り、考えることができるのだから、自分がその意味をもっとよく考えなければならないのだろうと思い直した。


 それにしても、萌は変わった。

 ともに起居し、行動していた頃は、まだ魂がこの世に来ていないようだと思えていた。しかし、ふたたび離れ、こうして相見えると、はっきりと魂というものがこの身体に満ち、なにかそれが楽しげに踊っているような印象さえ受ける。

 なにが、彼女をここまで変えたものか。

 そんな白の思考など知る由もない萌は、ただ視線にだけ気付き、少し振り向いて星明かりにまた小さく笑みをこぼした。


 気配に気付き、身を低く。男に、しずかに声をかける。

「——さあ、来ましたよ。手足は、なんともないはずです。しっかり、走れますね」

 男は二、三度頷き、おなじ星明かりの闇をこちらに向かってくる人影に向かって駆けだした。

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